神護寺-空海と真言密教のはじまり
2024/08/08
東京国立博物館で「神護寺-空海と真言密教のはじまり」。同博物館の公式サイトにおける紹介文は次の通りです。
京都北郊の紅葉の名所、高雄の神護寺は、和気清麻呂が建立した高雄山寺を起源とします。唐から帰国した空海が活動の拠点としたことから真言密教の出発点となりました。本展は824年に正式に密教寺院となった神護寺創建1200年と空海生誕1250年を記念して開催します。平安初期彫刻の最高傑作である国宝「薬師如来立像」や、約230年ぶりの修復を終えた国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」など、空海ゆかりの宝物をはじめ、神護寺に受け継がれる貴重な文化財をご紹介します。
神護寺には2016年に訪問したことがあり、山中とは思えない規模の伽藍と本尊《薬師如来像》をはじめとする仏像の数々に感嘆したことを覚えていますが、今回の展示ではそのときに見られなかった《高雄曼荼羅》と《伝源頼朝像》ほかの神護寺三像を見ることに自分としてのポイントがありました。
展示の内容を振り返る前に、図録の記述を元に簡単に神護寺の歴史をおさらいしてみます。
- 高雄山寺と神願寺
- 天長元年(824年)、現在の高雄の地にあった高雄山寺を他所にあった神願寺の代わりに定額寺(官寺の寺格の一つ)として「神護国祚真言寺」としたのが神護寺の始まり。神願寺は神護景雲3年(769年)に和気清麻呂に下された宇佐八幡神の神願[1]に基づいて建立されたもの。一方、高雄山寺は和気清麻呂の私寺であり、延暦21年(802年)にここで法華会を行った最澄が入唐して帰国後の延暦24年に日本初の灌頂を行うと、弘仁元年(810年)には空海が当寺に入って鎮護国家の修法を行い、さらに弘仁3年に金剛・胎蔵両部灌頂が初めて行われた[2]。
- 草創期
- 神護寺の創建に際しては神願寺から本尊《薬師如来像》が引き継がれ、さらに同寺の経営を委ねられた空海の下で制作されたのが《高雄曼荼羅》。その後、別当が代替わりする中で堂宇・仏像の充実が進められた。
- 平安時代後半から鎌倉時代
- 平安時代の二度の火災によって荒廃していた神護寺の復興を誓った文覚は、紆余曲折の末に後白河法皇と源頼朝の支援を獲得することに成功し、荘園の寄進を受けて伽藍の再整備と流出していた寺宝の回復を実現した。
- 南北朝、室町時代から江戸時代
- その立地が丹波と京都を繋ぐ要衝であるため南北朝動乱初期の渦中にあった神護寺は、その後朝廷や幕府の祈禱を担う主要寺院としての地位を確立したが、応仁の乱以後の兵火によって甚大な被害を被り、その復興が実現したのは江戸時代(元和・寛永期)。このときに京都所司代・板倉勝重と宮中との間を取り持ったのは和気清麻呂の末裔である半井瑞雪であり、現在金堂の須弥壇上に安置される四天王立像と十二神将立像は瑞雪が寄進したもの。
- 近代以降
- 明治政府による神仏分離政策の影響を神護寺も受けたが、歴代貫主の尽力や実業家による寄進により現在の寺観が調えられた。一方、高雄曼荼羅は早い段階で帝国京都博物館に寄託されてきたが、寛政5年(1793年)の修理から200年以上たち損傷が進んだため、2016年から6年がかりで修理が行われ、昨年、神護寺金堂にて開眼法要が行われた。
……と前置きが長くなりましたが、本展覧会の構成は次の通りです。
- 神護寺と高雄曼荼羅
- 神護寺経と釈迦如来像-平安貴族の祈りと美意識
- 神護寺の隆盛
- 古典としての神護寺宝物
- 神護寺の彫刻
7月17日から9月8日までの会期中に展示替えが行われ、通期では104点もの貴重な品々(教王護国寺、奈良国立博物館などの所蔵品を含む)が展示されますが、ここではこの日見た出展品の中からごく一部をピックアップして紹介します。
神護寺と高雄曼荼羅
最初に紅葉の名所・高雄の行楽の様子を華やかに描く《観楓図屏風》〈国宝〉(狩野秀頼筆・東京国立博物館所蔵)を「序章」として置いた上で、草創期から鎌倉時代にかけての歴史を振り返るパート。実はこの展覧会で見たいと思っていた品々はほとんどこのパートに含まれます。
弘法大師の浮彫像や図像、貴重な史料のオンパレードの中にあって異彩を放つのは、この《灌頂暦名》〈国宝〉です。「メモでも達筆」とキャプションが付けられていたように空海の筆になるものですが、いや、本当に達筆か?修正箇所も多いし……という素朴な疑問は横に置いて、これは上述の弘仁3年の金剛・胎蔵両部灌頂において灌頂を受けた者のリストであり、その筆頭に最澄の名が記されているのが目を引きます。
時系列で言えばこの後に出てくる《高雄曼荼羅》の方が先ですが、展示順としては先に来たのが教科書でも有名な《伝源頼朝像》〈国宝〉です。これは《伝平重盛像》《伝藤原光能像》と共に「神護寺三像」として知られていますが、等身大でいずれも存在感あふれる三つの像を並べてみると、明らかにこの像に描かれた人物がずば抜けた気品と知性を示しており別格の趣き。ルーペで覗くとすっきりした目や細かい髭一本一本を描く筆の冴えに加え冠の布の質感や黒袍に薄く浮かび上がる文様も確認できて、いくら眺めていても見飽きることがありません。日本の肖像画の最高傑作と言ってもいいのではないでしょうか。
ところでこれらの像は14世紀に編まれた《神護寺略記》の「仙洞院」の項の記述に基づいて藤原隆信が描いた頼朝・重盛・光能の像だと長らく考えられてきたのですが、1990年代に入り「足利直義願文」の記述に着目して足利直義・尊氏・義詮とする説(米倉迪夫説)が唱えられるようになりました。さらに今回の展覧会の図録に収録された論考「神護寺三像を見つめなおす」(土屋貴裕氏)は、仙洞院にこれらの肖像画が安置されるようになった頃には藤原隆信は存命ではなく、しかも仙洞院は天文16年(1547年)に焼亡した可能性を指摘して、これらの三像が《神護寺略記》に記された三人の像ではないと考えられると結論づけ、近年の新説(藤本孝一説)を「発想の転換」と紹介しつつ、像の技法面の詳細な検討を踏まえ独自説を展開していました。これらをまとめると、次の表のようになります。
神護寺略記 | 米倉迪夫説 | 藤本孝一説 | 土屋貴裕説 |
---|---|---|---|
源頼朝 | 足利直義 | 源頼朝 | 源頼朝 |
平重盛 | 足利尊氏 | 足利直義 | 足利尊氏 |
藤原光能 | 足利義詮 | 足利尊氏 | 足利義詮 |
土屋貴裕氏の立論の根拠をここで詳細に記すゆとりはありませんが、同氏はこれらの像が(失われた足利直義像と共に)法華堂に安置されたものと考え、足利の二人の像が肖像画として生身の人間を再生させようとしているのに対し、源頼朝像は至高の存在としての理想化が図られていると見ています。なるほど、それなら《伝源頼朝像》が飛び抜けて整った肖像画となっている理由も説明がつきます。
第1会場の最後に展示されていたのは《高雄曼荼羅》〈国宝〉のうち《胎蔵界曼荼羅》です(《金剛界曼荼羅》は後期展示)。空海が唐から持ち帰った曼荼羅は損傷が早く、請来から15年後に図様を模写して新たな曼荼羅(弘仁本)が制作され、さらにこれを元に制作されたのがこの現存する《高雄曼荼羅》ですが、空海請来本も弘仁本も彩色曼荼羅であったと考えられるのに対し、こちらは高価な紫根で染められた綾絹による4m四方の巨大な画面上に金泥と銀泥で細密に諸尊の姿を描いたもの。これは灌頂の儀式を行う暗い部屋で金銀に輝く光の効果を期待したものという説もあるそうですが、1200年もの時を超えて今に伝わった歴史の重みには圧倒される(それだけで十分な気がする)ものの、銀の方は黒く変色して肉眼では判別できず、金がうっすらと見てとれる程度。しかしその図像の詳細は早い段階でこの展覧会でも見ることができる白描図像に写し取られ、さらに「古典としての神護寺宝物」のパートに属する後世の模本・板木でクリアに見ることができるほか、第1会場の出口近くの映像コーナーでは赤外線によって銀泥の姿を可視化した映像作品も上映されていました。
この時点で既に上野まで足を運んだ目的は果たせたようなものですが、続く第2会場にも数多くの寺宝が展示されていて、あたかも神護寺の中にいるような感覚にとらわれ続けました。
神護寺経と釈迦如来像-平安貴族の祈りと美意識
タイトルの通り、このパートでは《神護寺経》と《釈迦如来像》が展示の中心となりますが、後者は後期展示の出展であるため、この日は《神護寺経》のみを拝見しました。
この極めつけに美しい《大般若経 巻第一(紺紙金字一切経のうち)》《同 巻第二》〈いずれも重文〉は、まさに平安貴族社会の美意識の精華という感じ。昨年訪れた平泉の中尊寺でも奥州藤原氏三代発願の「紺紙金字(または金銀字交書)一切経」を見ることができましたが、こちらは鳥羽天皇の発願とされ、後白河法皇によって奉納された経巻数5,400巻余りのうち2,317巻が神護寺に現存するそう。経巻を10巻ごとに包んだ経帙も多数展示され、染織史の観点からの丁寧な解説が付されていました。
神護寺の隆盛
文覚による復興なった後の神護寺の隆盛を各種文書や絵図で示すパート。
寺領を示すための実用的な絵図(古地図に典型的に見られる上下が一定していないタイプ)が並ぶ中、室町時代に描かれた《高雄山神護寺伽藍図》は伽藍の詳細を鳥瞰図として描くもので、その緻密かつリアルな表現は他の絵図と一線を画するものでした。また、このパートには後期になると《山水屏風》〈国宝〉も展示されますが、この日は江戸時代の模写を次のパートで眺めるに止まりました。
古典としての神護寺宝物
江戸時代に制作された《高雄曼荼羅》の模本が二種展示されると共に、幕末のやまと絵師・冷泉為恭による《神護寺三像》や《山水屏風》の模写も展示されていました。見応えがあったのは《両界曼荼羅》二種で、神護寺所蔵のもの(第1会場の原本近くに展示)は原寸大の紫色に染められた絹地に金銀泥で描きかつての《高雄曼荼羅》の鮮やかさを想像させ、知恩院所蔵のものは四分の一サイズの紺色の絹地上に金泥で細密極まりない筆致を示すもの。いずれも製作者のたいへんな技術と労力とその背後にある発注者の情熱とが如実に窺える逸品でした。
神護寺の彫刻
そして最後は仏像コーナーです。まずは《五大虚空蔵菩薩坐像》〈国宝〉が、中心に宝界像、四方に残る四像を配置するかたちで置かれて鑑賞者を迎え、ついでこの日唯一撮影が許されていた《二天王立像》が立つ一角へ続きます。
この《二天王立像》は12世紀の作で、神護寺の楼門に安置されているものですが、もとはその位置に中門があり、そこには仏師運慶が作った二天王像と八夜叉像が安置されていたそうです。それらが今に伝わっていればさぞかし見応えがあったことでしょうが、もちろん現在の二天にも不満があるわけではありません。もっとも形式面の違いなどから、これら二天は別々に作られた二軀が後に取り合わされて伝わったものと考えられています。
この二天コーナーの隣に日光・月光両菩薩を脇侍として伴う本尊《薬師如来像》が立っていましたが、穏やかな表情と柔らかい腰つきに装飾的な衣裳をまとう両菩薩(ただし身体の上半分以上が後補)の優美さとは対照的な《薬師如来像》のどっしりと重々しい体つき[3]とどこまでも厳しい表情(フライヤー参照)には慈悲の面影はなく、むしろ強く威圧されるものを感じます。この三尊像はかつての神護寺参詣時に拝見していますが、こうして間近に見上げるとぐっと迫ってくる印象です。なお薬師如来は元来密教の仏ではない(大日如来世界を描く両部曼荼羅の中に存在しない)のですが、神護寺においては上述の通り神願寺から継承されて本尊となったほか、後に空海が真言密教の根本道場とした東寺(教王護国寺)でも空海が開いた高野山の金剛峯寺でも薬師如来を本尊としており、鎌倉時代に著された『覚禅抄』では胎蔵界大日如来と同体であると説かれているそうです。
そして最後は、江戸時代に寄進された《四天王立像》と《十二神将立像》の躍動的な造形と鮮やかな色彩を堪能しました。このうち四天王は東西南北、十二神将は干支との対応関係があり、後者の像をよく見ると頭上に自分の担当する干支を示す動物の像を載せています。手にしている武具やポーズもそれぞれ個性的ですが、中でも巳神(ヘビ)が左手をかざして異常なまでに身体を左(向かって右)に傾けている姿が面白く、一目惚れしてしまいました。いや、本当は8年前に会っているから二目惚れか?