鬼瓦 / 定家

2024/07/25

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の特別公演で、狂言「鬼瓦」と能「定家」。

梅雨が明けてからの東京は猛暑日(漏れなく雷・夕立つき)が続いており、この日の国立能楽堂もうだるような暑さの中。いかに日傘をさしていても、着物で駅からここまで歩くのは相当につらそうです。

ロビーには金剛流のお膝元・京都は七条大宮から京菓匠「笹屋伊織」が出店しており、涼しげなくずきりに一度は惹かれたものの、売り子さんの「残りあと少しですよ」の惹句につられて長福寺餅を買い求めました。買ってしまってから「本当にこれでよかったのであろうか?」と自問自答しつつ入った見所の自分の座席は、今回は珍しく脇正面の左端。チケットを買おうとしたときには正面席は売り切れていたためですが、このことで後に中入時の作リ物内の様子がよく見えることになりました。

鬼瓦

「鬼瓦」は2022年に今日と同じ大蔵流で観ており、そのときは大名が山本東次郎師、太郎冠者が(山本則俊師の代演で)山本則重師でした。今日はこの組合せのうち大名が山本則孝師になっての二度目の鑑賞です。この狂言の主題は「妻を思う男の心」にあり、その点が「定家」に合わされた理由だろうと思いますが、もちろん味わいはまったく異なって屈託なく楽しめる人気曲です。

同じ大蔵流山本東次郎家ですから舞台上の進行や曲そのものについての感想は前回と大きく変わるところはないのですが、大名の素袍の柄が紅葉と銀杏で(この後の「定家」にふさわしく)秋を示しており、太郎冠者の上衣の背中が瓦文様になっていてその中にしっかり鬼瓦が描かれているのは新たな発見でした。また大名と太郎冠者が共に因幡堂の見事な作りを見上げるところは息がぴたりと合っていて、二人の視線の先に飛騨の匠の技が本当に見えているような気にさせられます。

それにしても、山本東次郎家の中でもとりわけ抑揚を抑えた真っ直ぐな演じ方をする印象の則孝師が妻を思い感情をあらわにして泣くというのが新鮮でした。そして、この日とりわけ心に響いたのは大名が妻を思って泣く愁嘆場そのものではなく、その直前に鬼瓦の形相が本国に残したままの妻の顔に似ていることに気が付く場面でふと漏らした「おお、それよ」です。前回東次郎師がどう演じたかは覚えていないのですが、この日の則孝師の発声にははたと膝を打つような強さはなく、むしろ自分の内面と向き合う独り言になっていて、このときすでに妻の顔を思い出してしみじみと愛おしむ感情が込み上げてきている様子が窺えました。

定家

金春禅竹作の三番目物。「楊貴妃」「大原御幸」と共に三婦人の一つとして品格を求められる曲だそうですが、これまでに観たのは2009年(関根祥六師)と2010年(金剛永謹師)の二回だけ。久しぶりの今回は2010年と同じく金剛永謹師がシテを勤められます。

囃子方・地謡共に裃を着用して登場し、ついで定家葛を載せた塚が大小の前に置かれて、寂びた笛から〔次第〕の囃子。大口僧出立のワキ/旅僧(福王和幸師)と着流僧出立のワキツレ二人が舞台に進み、謡う〈次第〉は山より出づる北時雨、行方や定めなかるらん。北国からやってきた一行は晩秋の旅路を経て都千本に到着し、都の景色に感じ入るうちに時雨に降られてそこにある東屋へ立ち寄ろうとしたとき、その背に向かって幕の内からどこまでも深い声音でシテが呼び掛けます。ワキとの問答の内に橋掛リに現れた前シテの出立は細かい草花文様で埋め尽くされた段の紅無唐織着流姿で、面は曲見(河内作)。右手に数珠を下げて橋掛リを歩みますが、喉に何かひっかかるものがあるのかコホコホと小さい咳をしながらも時雨の亭しぐれのちんの由来を述べ、一ノ松から藤原定家の菩提の弔いを勧めた上で舞台へ進みました。

ここで歌道に造詣の深かった金春禅竹がまず引用するのは藤原定家の次の歌。

偽りのなき世なりけり神無月 誰がまことより時雨れ初めけん(続後拾遺・冬)

時雨そぼ降る中に庭も籬も荒れ果てた時雨の亭の寂しい情景を地謡が謡ううちに精妙な足遣いを見せたシテは、続いてワキと共に足を運んで振り返ると、ここで二人の視界に塚(墓所の石塔)が入ります。ワキの問いに答えてこれは式子内親王の墓、また葛は定家葛だというシテは、さらに求められて式子内親王と定家との縁を語り、亡くなった式子内親王に対する定家の執心葛となつてこの墓にまとわりついて互ひの苦しみ離れやらず、共に邪淫の妄執の苦しみから逃れられずにいるので弔ってほしいとワキに頼んで塚の前に下居します。

〈サシ〉で引用されるのは式子内親王の激情を伝える次の歌。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする(新古今集・恋一)

さらに藤原敦忠の歌から昔は物を思はざりしが高い節で謡われた後、じっと居グセの〈クセ〉に謡われる悲恋と妄執の述懐には、式子内親王の言葉のようでもあり定家の言葉のようでもある曖昧さが漂います。ここに至ってシテは自らを式子内親王であると明かし、作リ物に背を当てて立ち尽くすと苦しみを助け給へやと言う言葉を残し、常座で小さく回って塚の中へ消えていきました。

ここで中入となり、山本東次郎師が時雨の亭のことや式子内親王と定家葛のことなどを語るのですが、私の座席からは作リ物の裏でシテが面を外し顔を出している姿が見えていて興味津々。後見が時折シテに話し掛けながら手際よく装束を変えていく様子が手に取るようにわかり、アイがちょうど謂れの説明を終えるタイミングで仕事を終えると共に大小が床几に着座したのを見たときには、その職人技の見事さにすっかり感心してしまいました。

アイが下り、ワキとワキツレが着座のまま正面に向き直って夕べも過ぐる月影に以下の〈上歌〉を謡うと、極めて重々しい〔習ノ一声〕に続いて塚の中からシテが次の歌を謡います。

夢かとよ闇の現の宇津の山 月にもたどる蔦の下道

藤原雅経踏み分けし昔は夢かうつの山 あととも見えぬつたの下道(『続古今和歌集』羈旅)を踏まえたこの歌を通して死後の闇路を辿る心細さを謡った後、ワキとの掛合いによってありし日の思い出を「巫山の夢」(『文選』所収「高唐賦」)になぞらえた上に、定家葛に絡め取られたこの姿をご覧なさいとワキに訴えたところで引回しが下ろされると、作リ物の中で床几に掛かっているのは白地の長絹、紫の大口、泥眼(河内作)を掛けた式子内親王の姿でした。いたわしいその姿に向かいワキが法華経薬草喩品の句を読誦すると、草木国土悉皆成仏の機を得た定家葛はほろほろと解け広ごれてシテは塚を出ることができ、ワキに合掌してから報恩の舞を舞うことになります。このときシテがさっと左袖を被くと、式子内親王が賀茂神社の斎院だったことを踏まえた小書《袖神楽》によって小鼓が神楽地(強弱反復音型)を打つ中にシテは袖を被いた姿のまま角に出、さらに舞台を回って塚の前に戻って袖を下ろしました。そして「面なの舞の有様」であることと恥じながら舞い始めますが、今度は小書《六道》により囃子方による特殊演奏が入ります。プログラムの解説を引用するとそれは〔序ノ舞〕の冒頭に笛が特殊な低音を六回反復して吹き、小鼓、大鼓は交互に六つの特殊な手を打つというものでしたが、〔序ノ舞〕に入って少ししたところから始まった笛による低音域での短い音型の反復ははっきりと聞き取れたものの、大小の「特殊な手」は認識できませんでした。

ともあれ、およそ20分ほどにも及んだ〔序ノ舞〕は、ほとんど静止に近い立ち姿から緩やかに動きを大きくしていき、格調高い舞のところどころに強い足拍子を交えて終始緊迫感に満ちたもの。しかし長大な〔序ノ舞〕が終わったとき、シテはかつての美しさを失った自分の姿にすっかり落胆しています。かくしてキリの詞章において式子内親王が元の墓石に帰ると、元のように定家葛が這いまつわって墓石を覆い隠してしまうという情景が描かれますが、この間にシテは塚の内へ正面から戻るといったん右横から出て再び正面に回り、塚の左前の柱に背を当てて作リ物がたわむ(後見が必死に支える)ほどに重みをかけてから柱巻きのようにして再び塚の中へ左から入って、膝をついて扇で面を隠しました。そのまま終曲を迎えるかと思われましたが、小書《埋留》によって詞章の最後の失せにけりの後に囃子の演奏が残る中、シテは再び塚の右から出て、常座に立って終曲を迎えました。

初めて「定家」を観たとき、一度は救済を得た式子内親王はエンディングにおいて再び定家との妄執の世界に生き続けることを選びとったのだというシンプルな理解をしたのですが、この日のプログラムに収載された大谷節子氏の寄稿「『定家葛』の創出-世阿弥から禅竹へ」ではまったく異なる解釈がなされていました。少し長く引用すると、次の通りです。

能「定家」には、永劫に離脱しない執心に禅竹の意図を読む解釈や、執心の葛によって墓石を呪縛される苦悩に「苦しみの中の快楽」を読む解釈がなされることが少なくないが、法華経薬草喩品の読誦によって、「一味の雨」の恵みによって葛の姿のまま成仏するのが「草木国土悉皆成仏」の教えであることを鑑みれば、こうした解釈は相容れまい。

・・・

亡者であるシテは「ありつるところ」(墓所)に帰って姿を消すが、植物である定家葛もまた〔中略〕「皆潤ひて草木国土悉皆成仏の機を得」て「解け広」がる。一味の雨を降らす法に偽りはなく、葛(定家)はその姿を変えることなく、そのままの姿で、無漏の恵みを受けて式子と共に成仏していると読むのが、禅竹が〔中略〕「執心の葛」を仏道へ導いた意図に叶っているであろう。

かたや、今回この「定家」を観るにあたって予習した際に観世流・柴田稔師のブログのうち「定家」に関する記事を拝見したところ、そこに紹介されている松岡心平氏の解説「『定家』の雨とエロス」には次の記述がありました(改行を一部変更しています)。

後場、ワキ僧の読誦する『法華経』「薬草喩品」の「一味の雨」により、まつわりついていた定家葛は、草木成仏のおかげで解けひろがり、式子内親王は、いったん、墓から出ることができた。そして式子は、僧に感謝して舞を舞うのだけれど、舞が終わると、その美しい容貌は次第に衰え、崩れ、ついには葛城の神のような醜悪な姿に変じてしまう。『法華経』による業苦からの解放は、一方で、墓の中で定家に抱かれることでたえまなく注がれていた愛のエネルギーの欠乏によって、容貌の崩壊を式子にもたらすのである。

『法華経』による解放をとるか、それとも地獄の業苦を永劫にうけながらも、葛となった定家に抱きすくめられて美しい容貌でいられる墓の中をとるか。式子は墓を選び取って、その中に自ら再び埋もれていくのである。

ただし、この選択は、単なる『法華経』の否定、ましてや仏教否定ではないだろう。男女が合体している双身歓喜天像の世界、歓喜天信仰の世界が考えられるからである。禅竹は、『稲荷山参籠記』という自著で、若い頃からの歓喜天信仰を告白している。とすれば、禅竹は、『法華経』の世界観を越えたところに、密教的エロスの世界、すなわち男女のセックスを含む歓喜天信仰を置いていたのではないか。そこでは、愛の成就こそが悟りであり、そうした世界観にも裏打ちされて、「定家」の最後の場面は創出されたのではないだろうか。

数百年も前に生きた作者(本曲では金春禅竹)の創作時の意図を読み解くことは至難の業ですが、諸説ある中でも能楽師は、自分自身の解釈をもって役を演じる自由を享受していることと思います。一方、見所から観る者は目の前の舞台に立っている能楽師がいかなる解釈に基づいて演じているかを知る由がありません。なんとも難儀なことですが、こうした作者・演者・鑑賞者間の解釈の多様性を許容してくれるのが、能楽鑑賞の面白みでもあるのだろうと考えることにしています。

配役

狂言大蔵流 鬼瓦 シテ/大名 山本則孝
アド/太郎冠者 山本則重
金剛流 定家
袖神楽
六道
埋留
前シテ/里の女 金剛永謹
後シテ/式子内親王
ワキ/旅僧 福王和幸
ワキツレ/従僧 矢野昌平
ワキツレ/従僧 村瀬提
アイ/所の者 山本東次郎
一噌隆之
小鼓 大倉源次郎
大鼓 國川純
主後見 廣田幸稔
地頭 松野恭憲

あらすじ

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定家

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