田中一村展

2024/09/25

東京都美術館(上野)で開催中の「田中一村展奄美の光 魂の絵画」を見に行ってきました。公式ウェブサイトに掲載された主催者[1]の「ごあいさつ」によれば、本展の開催趣旨は次の通りです。

このたび東京都美術館で、画家・田中一村(たなか・いっそん/1908-1977)の展覧会「田中一村展奄美の光 魂の絵画」を開催いたします。本展は、一村の神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、その全貌をご紹介する大回顧展です。

世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるものでした。

自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです。

本展は、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅する決定版であり、近年発見された資料を多数含む構成により、この稀にみる画家の真髄に迫り、「生きる糧」としての芸術の深みにふれていただこうとする試みです。

実は、この展覧会の開催情報に触れるまで田中一村のことはまったく知らなかったのですが、フライヤーを飾る代表作《アダンの海辺》(右図)にアンリ・ルソー的な魅力を感じて、ほぼ予備知識なしの状態で美術館へと足を運びました。それまでてっきり一村は奄美に生まれ育った人だと思い込んでいたのですが、実際には関東地方で生まれ育った人で、奄美に在住したのは50歳から69歳(没年)までと一村の画歴の中でも一部にすぎません。しかも、奄美に移るまでの一村の画風は南画を出発点としたトラディショナルなものである上にその時代の作風の中でも数々の見事な作品を生み出しており、ルソー的な作風は一村の一面にすぎないことがこの展覧会を見ていくうちにわかりました。

この展覧会では、近年発見された作品や関連資料を含めて300点を越える展示品を「東京時代」「千葉時代」「奄美時代」に分けて展示しているので、以下、その章立てに即して展覧会の様子を振り返ってみます。なお、各章のタイトルの次に置いたプロフィール情報(小文字)も公式ウェブサイトの記述からの引用です(一部表記を変えています)。

第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代

栃木町(現・栃木市)に生まれる。本名は孝。大正3年(1914)、東京に転居。翌年、彫刻師の父から米邨べいそんの画号を与えられる。幼年期から卓越した画才を示し、神童と称される。南画を得意とした。大正15年(1926)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するも、2ヶ月で退学。「家事都合」とされるが詳細は不明(同級生には後の日本画壇を代表する東山魁夷や橋本明治らがいた)。その後、3人の弟と両親を立て続けに亡くす。

まずのっけから驚かされるのが一村(米邨)の「神童」ぶりです。たとえば右の《菊図》には「八童 米邨」と記されていますが、この「八童」とは数え年で8歳という意味。構図もいいし花弁の質感も見事で、左下の欠損は父が筆を入れたことを気に入らず破り取ったところだと言いますから矜持の高さも一人前です。この絵の近くには植物と動物の組合せを画題とした小品が並んでいましたが、ことに《つゆ草にコオロギ》(12歳)のしっとりした風情には年齢を忘れて見入ってしまいました。

やがて作風は筆致も色使いも大胆さを増して画賛を伴う南画(文人画)へと発展していき、幼少の頃から父の指導の下で深めたと思われる漢籍への造詣が存分に活かされています。そこに書かれる書の字体はやや左下りで一字一字が四角く力強い個性的なもの。東京美術学校をわずか2カ月で中退したことは後の中央画壇との距離の遠因になったのかもしれませんが、その年に政財界人など多くの賛助員が名を連ねた「田中米邨画伯賛奨会」(頒布会)が開催されているように、すでに18歳にして絵で身を立てるプロの画家としての自信が、この頃の絵から窺えます。しかしこの頒布会は、一村の個展と呼べるものとしてはこれが最初で最後の機会になりました。

20歳を過ぎた頃からの作品はそれまでの南画を離れて作風が広がりを見せ、大和絵の伝統に根ざす花鳥図もあれば、旅先(信州)でのスケッチを水墨画として支援者に贈った一連の色紙や執拗な写生を元に繰り返し描いた雁来紅(葉鶏頭)の連作もありましたが、ここで特に心惹かれたのは、シャープなピントで撮影した松の枝を極限まで縦にトリミングしたような水墨画《松図》の厳しさと、これとは対照的に五葉松の周りを秋枯れの木々の葉が落ちる直前のくすんだ赤や黄で囲む《秋色》の物哀しい風情です。

第2章 千葉時代「一村」誕生

昭和13年(1938)、姉、妹、祖母と千葉に転居。農業をしながら制作に従事。昭和22年(1947)、柳一村と画号を改め、《白い花》が青龍展に入選。翌年、田中一村の名で同展に入選するも、自信作が落選したため辞退。その後、日展、院展と相次いで落選。わずかな支援者を頼りの制作が続く。

千葉寺町に移住した一村は身近な田園風景を色紙絵に描くようになっていますが、展覧会という発表の場を持たない一村にとっての色紙絵は画面は小さくても意義は決して小さいものではなかったようです。

色紙だけでなく大きな額絵としても描かれた四季の千葉寺風景の連作の中では、この《千葉寺 春》に見られるグラデーションや《千葉寺 杉並木》に描かれたもくもくとダイナミックな雲など、余白ではない空の表現に見入ってしまいました。さらに風景画《水辺風景》(1952年)では、葉を落とした大樹とススキのシルエットを前景として配し、夕暮れの色を映す中景の水面の向こうに紫からオレンジを経て暗みを伴う薄青色へとグラデーションを示す空と雲の美しさに息を呑むばかりでした。

一村の中央画壇との生涯唯一の接点となったのは、川端龍子率いる青龍社の展覧会に入選した《白い花》(二曲一双)です。一杯に広がるヤマボウシの花の白さ、その葉と竹の緑。左下に描かれたトラツグミの羽の茶とオレンジがアクセントになって木々の間の空間の存在を見るものに意識させる構図が巧みです。しかし、翌年の青龍展に出品した自信作《秋晴》が落選となったことに憤った一村は川端龍子とも袂を分つことになりましたが、これは《秋晴》が描く繊細な情趣が川端龍子の「会場芸術」になじまなかったためであるようです。

その後、日展や院展に何度か出品(いずれも落選)する中で支援者に送った葉書や、支援者からの依頼として取り組んだ障壁画・天井画、折々の仕事の様子を示す展示が続き、さらに九州・四国・紀州への旅を通じて描かれた色紙絵などが並びましたが、《僻村暮色》2種の同主題同構図ながら似て異なる空と山との描き方を面白く眺めると共に、阿蘇で描いた《ずしの花》のように近景ぎりぎりに植物を大写しにしてその間から遠景と空とを描く構図が後の奄美での作品群を予感させて興味深いものでした。

第3章 己の道 奄美へ

昭和33年(1958)、50歳にして単身奄美大島へ移住。紬織の染色工として働き、生活費を貯めては、奄美の自然を主題とした絵に専念する日々を送る。昭和52年(1977)、夕食の支度中、心不全により亡くなった。享年69歳。

ここまで予想外に長い道のりでした(疲れました……)が、やっと奄美時代のコーナーです。展示は最初のうち色紙に描かれた軽いタッチのスケッチが並びますが、やがてアダン、パパイヤ、ソテツ、それに南洋の鳥と魚といった奄美ならではのモチーフが前面に出てくるようになります。

《奄美の海に蘇鐡とアダン》は、1年半の奄美滞在の後に千葉へ戻った時期に描かれたもの。横長の構図は一村には珍しいものですが、中央右寄りの遠景に描かれた「立神」(ネリヤカナヤから訪れる神が立ち寄る海上の岩山)は奄美の精神世界を象徴するものとして、その後の一村の絵に折々に登場します。

《海老と熱帯魚》は一村の最晩年の作品の一つ。余白を残さず濃密に描きこまれた画面から、奄美の自然の熱気とその恵みの豊かさとが伝わります。

時系列で言えばこれらの作品(《榕樹に虎みヽづく》《枇榔樹の森》《アダンの海辺》《不喰芋と蘇鐡》)は上掲の《海老と熱帯魚》より前に描かれたものですが、展示の最後の部屋にはこれら縦長の大作(未完作を含む)12点が部屋の三方を囲むように配置されており、その中に入ると寺院の金堂の中で仏像群に囲まれているような錯覚に囚われました。あたかもそこは、70年弱の生涯のうち最後の20年間を奄美に捧げた一村のための鎮魂の空間のように思えて感動を覚えます。そうした中、作品を一つ一つ見ていくと、

  • 《榕樹に虎みヽづく》の片足で枝に止まるミミズクの気品
  • 《枇榔樹の森》の墨の濃淡で描かれたビロウの葉を通して見える森の奥行き
  • 《アダンの海辺》での砂礫とさざ波の精緻な描写と雄大な雲の表現
  • 《不喰芋と蘇鐡》のクワズイモが花芽の段階から実が朽ちるまでを円環として描いた先に「立神」を覗かせる寓意性

など、主題と技法のそれぞれの深みが尋常ではありません。本稿の冒頭に、奄美時代の作風は一村の一面にすぎないと書きましたが、こうして振り返るとそれは一村の画業の到達点でもあったことがわかります。

巷間に伝えられる最後は東京で個展を開き絵の決着をつけたいという言葉は、一村が千葉から奄美に渡った頃のもののようですが、この展覧会はこうした一村の願いを没後半世紀近くを経てようやく実現するものとなりました。しかし、このように鬱屈した気持ちを一村が亡くなるまで持ち続けていたかどうかはわかりません。むしろ、絵の完成後に落款やサインを加える気力すら残っていなかったというほど制作に入れ込んだ《アダンの海辺》《不喰芋と蘇鐡》について、一村が知人への手紙に書いた次の言葉からは、奄美での暮らしを続ける中で一村の心が浄化され、彼の地に同化する境地に至ったことが窺えます。

一枚半年近くかかった大作二枚です。これは一枚百万円でも売れません。これは私の命を削った絵で閻魔大王えの土産品なのでございますから。

最後に4Kムービーで現在の奄美大島の無垢な自然と文化を紹介する映像コーナーを置いて、この充実した展示は締めくくられました。

なお、この展覧会にいくつもの初出作品があったように、一村は「自分だけのために絵を描き続けて清貧のうちに亡くなった孤独の画家」というわけでは必ずしもなく、経済的に一村を支える支援者のネットワークを持ち、そこにいくつもの作品を提供していたようです。したがって、今後も一村の作品や資料が新たに日の目を見て、10年後には新たな解釈で一村を見つめ直す展覧会が開催されることになるかもしれません。もしそういうことになれば間違いなく、新たな一村との出会いを期待して、展覧会場に足を運ぶことになるだろうと思います。

▲左:《アダンの海辺》
  • ▲左:《椿図屏風》《白い花》《秋晴》《薬草図天井画(3点)》《アカショウビン》《枇榔樹の森》《榕樹に虎みヽづく》《花草文日傘》《牡丹菊図帯》《和光園芳名録》
  • ▲右:《奄美の海に蘇鐡とアダン》《田中一村 肖像》《岩上の磯鵯》《アダンの海辺》《不喰芋と蘇鐡》

脚注

  1. ^公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、鹿児島県奄美パーク 田中一村記念美術館、NHK、NHKプロモーション、日本経済新聞社