バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰

2024/09/27

三井記念美術館で「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」を見ました。三井記念美術館を訪れるのはもしや初めて?と思ったのですが、確認してみたら2017年の「奈良西大寺展」でここを訪れていました。

同美術館の公式サイトにおける紹介文は次の通りです。

バーミヤン遺跡は、アフガニスタンの中央部を東西に走るヒンドゥークシュ山脈の中にあります。この地域は、古くからユーラシア各地の文化が行き交う「文明の十字路」とも呼ばれています。渓谷の崖に多くの石窟が掘られ、その中に東西二体の大仏がそびえていました。大仏の周囲壁面には「太陽神」と「弥勒」の姿が描かれていました。

本展覧会は、東西二体の大仏を原点とする太陽神と弥勒の世界に迫り、特に「未来仏」である弥勒信仰の流れを、インド・ガンダーラの彫刻と日本の法隆寺など奈良の古寺をはじめ各所に伝わる仏像、仏画等の名品でたどります。

バーミヤンの大仏と壁画は、2001年3月にイスラム原理主義組織・タリバンによって破壊されてしまいましたが、破壊以前に行われた調査時のスケッチと写真によって、このたび壁画の描き起こし図が新たに完成しましたので、東京にて初公開いたします。

この展覧会に足を運ぼうと思ったのはもちろん、中央アジアの仏教遺跡に長年の関心を持ち続けているからで、過去にも同種の展覧会には何度か足を運んでいます。中でも6世紀から13世紀にかけて盛えたバーミヤン(cf. ガンダーラの興隆は1世紀から5世紀頃)は玄奘三蔵が訪れた地でもあり、できることなら一度は訪れてみたいとずっと思っていたのですが、上記の通り2001年にタリバンによって破壊されてしまい、この目で巨大磨崖仏を見るという夢は絶たれてしまいました。

それから20数年を経て、図らずもバーミヤンにまつわる新知見を得られる機会となったこの展覧会は、まず今年の4月20日から6月16日まで京都の龍谷大学龍谷ミュージアムで開催された後、9月14日から11月12日まで三井記念美術館で開催されるのですが、前に見た「奈良西大寺展」がそうであったように、この展覧会でも三井記念美術館のレイアウトに合わせるためか図録から窺われる本来の構成を若干変更して展示していました。ここではよりシンプルに説明するために三井記念美術館の展示レイアウトと図録の章立てをミックスして全体像を紹介することにします。

第1章 バーミヤン遺跡と東大仏の太陽神

バーミヤンの大磨崖仏は東大仏(釈迦仏・像高38m)と西大仏(弥勒仏・像高55m)の2体がとりわけ有名ですが、そのうち東大仏の頭上には後述するようにゾロアスター教の太陽神ミスラの姿が壁画として描かれていました。このことを踏まえて、展示の最初の方では主にインドの太陽神スーリヤにまつわる遺物が複数展示されていました。

テラコッタのスーリヤ像や赤い砂岩による七頭立て馬車に乗ったスーリヤ像と共に展示されていたこの《スーリヤ柱頭》(ガンダーラ 2-3世紀)は、他の展示品とは一線を画していました。中央には正面を向く太陽神(右手を掲げて立てた二本指までもきりっと彫り出されています)、その左右には暁の女神、下には先導するかのような鳥(ガルダ?)、両翼にアカンサスの葉と蓮華唐草。幅50cmほどとさほど大きなものではありませんが、それだけに浮彫りの緻密さが際立っていました。そしてこの正面観の強い構図は、《仏伝浮彫「出城」》(同)で愛馬カンタカに乗って城を出る釈迦の姿に重ね合わされます。

他にも釈迦の姿を仏法僧の法輪で表した《仏伝浮彫「初転法輪」》(同)や、日輪の下に膝だけを出して光り輝く釈迦の存在を示す《日輪浮彫》(同)、さらにギリシア・ローマ的に写実化した顔立ちを持ちつつブッダ(その場面が梵天勧請なら釈迦)が頭光を放つ《仏坐像浮彫》(ガンダーラ 2-4世紀)など、小品ながらも見応えのある遺物が並んでいましたが、それらと共に展示されていた《風神像》の造形が日本人にもおなじみのあの出立ちだったことに少し驚かされました。

続いて1960-70年代の京都大学ほかによる調査記録(壁画描き起こし図や研究ノート)を展示した上で、今回の展示の主眼の一つと言える《バーミヤン東大仏龕天井壁画描き起こし図》が展示されました。これは1970年代の京都大学隊が撮影した写真をもとに原寸の10分の1程度の大きさで平面化して描き起こしたもので、中央上部には漫画の主人公のようにすっきりした顔立ちで軽く腰を曲げたポーズの太陽神が四頭立ての馬車に乗り二女神を従えて天を駆ける様子が見てとれます。その姿はギリシアのヘリオスやインドのスーリヤ(いずれも太陽神)の図像を融合しつつもイランのミスラ(同)に擬せられていて、この図を見ることができただけでこの美術館に足を運んだ甲斐があったと言えそうです。なお、太陽神が釈迦仏と結びついている理由はこの展覧会場では明らかにされていませんでしたが、図録に掲載された論考「文明の十字路 ガンダーラとバーミヤン」の中で筆者(宮治昭氏)は、もともとバーミヤンにおいて盛んであったミスラ信仰を仏教が巧みに取り込んだものと解説しています。

第2章 西大仏の兜率天と弥勒 / 第3章 アジアに広がる弥勒信仰

一方、西大仏の方はもともと壁画の剥離が進んでいたために《バーミヤン西大仏龕天井壁画描き起こし図》も空白部分が大きいのですが、周囲に整然と描かれているのが兜率天であることから中央には釈迦仏の後継者である弥勒菩薩がいたはずということから、その想定復元図も展示されていました。

その上で弥勒信仰の広がりを見ていくことになり、まず並んでいたのはインドで出土した仏伝浮彫の数々です。「占相」「纏布」「梵天勧請」となじみのある主題の浮彫りが並ぶ一方で、「舎利争奪・分配・運搬」は下段に①舎利を巡る紛争と仲裁→②和解して分配→③それぞれ自国に持ち帰るという三つの場面が右から左へと並び、これを欄干越しに天人たちが見下ろす姿が上段に描かれ、その中の一人は両脇侍を伴う弥勒菩薩であるという興味深い構図でした。

続いてガンダーラで流行した弥勒信仰に基づく仏像がいくつか並びます。左の《弥勒菩薩立像》(ガンダーラ・3-4世紀)は2世紀前半には弥勒菩薩に通例となっていた結上げ髪と水瓶を示し、中央の《弥勒菩薩交脚像》(ガンダーラ・2-3世紀)も遊牧民のテントの中に置かれる低い椅子への座り方である「交脚」が弥勒菩薩の定型です。一方、半伽思惟像はガンダーラでは観音菩薩を表しますが、これが中国〜朝鮮半島に渡ると単独の半伽思惟像は兜率天を思い描く導き手としての弥勒菩薩に当てられるようになっていることが《菩薩半伽思惟像》(東魏・544年)などで示されました。

第4章 弥勒信仰、日本へ

バーミヤンを経てインドに入った玄奘三蔵が中国に持ち帰った唯識思想は、兜率天の弥勒菩薩からインドの無著・世親へ伝えられたものとされ、その教義が法相宗として日本にもたらされています。そこでこの展覧会の道筋は、玄奘三蔵の求法の旅の様子を確認した後に中国・朝鮮の弥勒仏を眺めて、最後に日本の弥勒信仰の様相を仏像、経典、図像で示します(ただし実際のレイアウトは必ずしもこの通りになっていません)。

そこには〈重文〉を含むいくつかの優品が展示されており、たとえば弥勒経典の解説を通じて、弥勒信仰が弥勒菩薩が住む浄土である兜率天への往生を願う上生信仰と釈迦入滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が兜率天からこの世に下りて衆生を救済すると信じる下生信仰に分かれることを学ぶこともできましたが、今回の自分の関心はあくまでバーミヤンそのものにあったので、ここでは白鳳時代の天智5年(666年)作である大阪・野中寺やちゅうじの《弥勒菩薩半伽像》〈重文〉が、太陽神信仰の初期の姿を示す展示室1の次の間(展示室2)に一体一室のスペースを与えられて鎮座していたことを紹介するにとどめます。

美術館外の一室では「文明の十字路 バーミヤン」というタイトルの10分間程度の映像作品が放映されていました。これは2018年の秋にドローンを使ってバーミヤン溪谷の大磨崖を空撮したもので、ヒンズークシュ山脈の山中、標高2500mの高地にある溪谷合流点の肥沃なる盆地とこれに南面する大磨崖に彫られた数えきれないほどの石窟、さらに背後にある高地の上の雪を高いところからクリアに撮影しており、その景観のダイナミックさは見ていて息を呑むほどでした。しかし、ユネスコによって2003年から再開された調査・保存修復事業は、2021年8月にタリバンが再び政権を獲得したことで中断を余儀なくされており、その将来は不透明なままです。この映像作品のナレーションは最後にそのことに触れて、バーミヤン遺跡の文化遺産が未来に伝えられていくことを願ってやまないと結んでいました。