塾長の鑑賞記録

千手

2021/09/29

銕仙会能楽研修所で青山能。仕舞二番と共に能「千手」です。

まずは仕舞二番。「大江山」(清水寛二師)は中入前の酒呑童子と源頼光・藤原保昌の酒宴の場面。「女郎花」(観世淳夫)は小野頼風が妻の後を追って入水する場面を語るクセと地獄の責苦のうちから救済を願うキリ。清水寛二師の仕舞の絶対の安定感とそれでいて豊かな写実(酔ってよろよろ)に感銘を受けましたが、それ以上に、じっくりとしたクセから一転して飛返リなど激しい動きを見せる観世淳夫師が実に精悍な顔つきになってきたなぁと感心しました。

千手

武将としても教養人としても一級の人物でありながら南都焼討の責任者となった平重衡は、一ノ谷の合戦で囚われの身となり鎌倉に送られて源頼朝と対面したときにその堂々たる態度で頼朝をはじめ源氏の諸将を感服させ、その後、狩野宗茂に預けられることになりました。このときに重衡を慰めるために遣わされたのが千手前で、宴席で千手前が朗詠・今様を歌い琴を弾くと重衡も琵琶を弾じ朗詠したという逸話が『平家物語』巻第十「千手前」に書かれています。

金春禅竹作の能「千手」はこの逸話をもとに、宴席を重衡が南都の大衆の前で斬られるために鎌倉を旅立つ前夜のことと脚色してドラマティックな別れの曲に仕立てたものです。小書《郢曲之舞えいぎょくのまい》がつくと詞章が大幅に省略されて千手と重衡の交情にフォーカスし、舞も「序之舞」から「彩色掛り中之舞」に変わるそうですが、この日の上演は小書なしでたっぷりと聴かせるものです。

今回は本曲の初見なので、以下少し詳しめに流れを追ってみます。


まず無音のうちにツレ・平重衡(小早川修師)とワキ・狩野介宗茂(則久英志師)が登場。ツレは直面で白地の着付に紫地の指貫を着用し、掛絡を掛け左手に数珠を持って出家を望む姿を示しています。一方ワキは黒地に白い鶴の紋の直垂上下出立。ツレが脇座で床几に掛かるまでワキはいったん後見座に向かい、しかるのちに常座に進んで自らの名乗リと共に、平重衡を自らの屋敷に迎えた経緯と千手前の素性について説明をして、今日は雨中の徒然に重衡に酒を進めようと思うと語りました。

ワキが地前に着座したところでヒシギが入り、次第の囃子が奏されてシテ・千手前(鵜澤光師)が登場しました。面は真っ白な小面、紅白段に紅葉葉と秋の草花(と見えましたが、曲自体の季節は三月です)を散らした美しい唐織を着流しにして静々と舞台に進んだシテの次第は琴の音添へて訪るる、これや東屋なるらん。そしてサシ以下で春の花の栄えと秋の月の水底に沈むさまを喩えにして重衡の運命の浮沈をいたはしやと嘆くシテの声音には深い思いがこもり、その右肩を少し引いた小柄な立ち姿からは900年前の女性が今この舞台上に姿を現したかのような霊気が感じられました。

重衡の心象そのままに雨のそぼ降る中ワキ宅にやってきたシテはワキに案内を乞い、その上でいったん後見座に下がったところで、ツレは床几に掛かったまま、長きにわたり匈奴に囚われたたものの遂には漢に帰国した蘇武の故事に対し自分は今日が限りかも知れないとアンニュイな表情で謡います。これに対してワキは平伏して千手前が来訪した旨を述べましたが、気分の乗らないツレは今日の対面は叶ふまじきと申し候へ。しかし千手前も、これは私用ではなく頼朝の御諚により琵琶琴を持ってきたのだと重ねて対面を申し入れ、ここでワキが手際よく台詞を重ねてシテは宅内に招じ入れられます。

シテその時千手立ちよりて
地謡妻戸をきりりと押し開く

シテが戸を押し開く所作をして中央に進み入ったそのとき、舞台上を照らすライトが照度を上げて舞台上の明暗が変わったように思えました。能において途中で照明を変えるという演出は普通ありませんから、これはたまたまこの日行われていた撮影の都合によるもの?それとも単に私の錯覚?それはともかく、妻戸を開けて宅内に入ったシテはツレと見合った途端、御簾より匂い立つばかりの花の都人の風情に心を奪われて一瞬フリーズ、そして正中に静かに下居。ここから舞台上の空気感が変わり、ぐっと親密な空間になってきます。

しかし、頼朝に対して申し入れていた出家の願いがかなわなかったことをシテから聞かされたツレは口惜しやと、その向きを徐々に正面方向へ回しながら嘆きの表情・口調。ただ、このあたりの詞章に書き込まれているシテの無念や生き恥の感覚、父・清盛の命により仏像を亡ぼしたこと(南都焼討)への後悔など思い乱れる様子は『平家物語』での重衡の描かれ方とは少し異なっているようにも思います。というのも『平家物語』での重衡は、頼朝から南都炎上の責任を問われて父の指図でも自分の策でもない(偶発的な事故である)と反論した上、弓矢を取るものとして捕われの身となり敵の手にかかることは恥ではないのだからさっさと首を刎ねよと言い切って源氏の諸将を感動させ、頼朝もこれを聞いて重衡を厚遇することにしているからです。

さて、舞台上では花の都から遠く東国へと変転したツレの乱れる心をシテが慰める掛合いから在原業平の東下り(八橋・唐衣)にたとえる地謡に続き無聊のツレを慰めようと扇を酒器に見立てての酒宴になって、ここでシテ・ツレ・ワキの三人は舞台上の脇柱寄り四分の一の空間に密集する形となりました。床几から降りたツレはシテと向かい合い、ここでワキの求めに応じシテが羅綺の重衣たる、情なき事を機婦に妬む(『本朝文粋 九』「羅綺之為重衣 妬無情於機婦 管弦之在長曲 怒不闋於伶人」菅原道真)とひときわ朗々と謡い上げると、続いて三人同吟で只今詠じたまふ朗詠は、忝くも北野の御作。此詩を詠ぜば聞く人までも、守るべしとの御誓なり(北野天神=道真)。しかしここで自らの罪を自覚し助からないことを覚悟しているツレがさりながら重衡は今生の望なし。ただ来世の便こそ聞かまほしけれと寂しげに述懐ただ以下は再び三人同吟)すると、シテは十悪といふとも引摂すとツレにも極楽往生の望みはあると励まし立ち上がって囃子と共に大きく舞台を回るイロエ。さらに大小前に立ってクリ・サシと、重衡の生い立ちと一ノ谷での奮戦が謡われ、その流れのままに長大な二段グセにおいて生け捕られて鎌倉へ送られるに至った経緯を道行としてリマインドしつつクセ舞が舞われました。海道下りの後に鎌倉に入るところで足拍子を踏み、『平家物語』において重衡が歌ったとされる朗詠(『和漢朗詠集 詠史』「灯暗 数行虞氏涙 夜深 四面楚歌声」橘広相)灯暗うと引用するところでは扇で面を隠し雨さへしきる夜の空で扇を持つ右手を左肩へ寄せるなどの印象的な型を織り込んで、最後にツレとじっと見合った後に地謡が忘れめやと長く伸ばすうちにツレに背を向けてゆっくり常座に戻ると、ここから序之舞に入ります。

この序之舞もまた、素晴らしいものでした。本曲の上演が終わった後の能楽小講座で谷本健吾師がおっしゃっていたのですが、唐織で序之舞を舞うことは非常に難しいとのこと。その理由は唐織が身体を強く制約する装束である上に袖を返すといった動きもできないためで、唐織で序之舞が舞われる曲はこの「千手」と「熊野」、烏帽子を付けて静御前が舞う「船弁慶」、それに片袖を脱ぐ「班女」を加えてもわずかなのだそうです。しかし、鵜澤光師の序之舞はそうした制約を感じさせず、染み渡る笛の音とゆったりとした大小の鼓に身を委ねて美しく舞われ、角に出たときのその姿は照明の具合もあって神々しいばかりに輝いて見えました。

序之舞を終えてシテは一樹の蔭や、一河の水。皆これ他生の縁と白拍子を謡います。『平家物語』でも千手前は少し異なる詞章で同様の白拍子を歌っていますが、そちらでは今ここに集う縁を歌っていると思われるのに対し、本曲のこの場面で謡われてみると来世の再会を願う言葉のように思えました。これに対しツレは数珠を床に置き扇を開いて左手に抱え琵琶を弾じる様子、シテもまた開いた扇を同様に構えて琴で合奏する形。そして地謡峰の松風通ひ来にけり(『拾遺和歌集』「琴の音に峰の松風通ふなり いづれのをより調べそめけむ」徽子女王)と共に面を上げて中正面方向の宙を見やったシテは、やがてやや俯けた面を扇でツレの側から隠す枕ノ扇をして、ここにしみじみとした交情の時が流れます。

やがて東雲もほのぼのと明けわたり、シテのあさまにやなりぬべきとの声にツレは扇を閉じて数珠をとり、シテのシオリとワキの平伏による出立の合図を受けて立ち上がると、シテもシオリを見せつつ立って常座へ。そして脇座から橋掛リへ向かうツレと常座から脇座へ向かうシテとが舞台上ですれ違い、袖と袖とが触れ合うところで一瞬の静止。切なさ溢れるこの別れの場面はしかし刹那のうちに終わり、ツレとワキとが橋掛リを下がってゆく姿を見送るシテはいつしか常座まで進みそこにシオる姿で終曲を迎えました。


一場物の現在能ながら、情緒深くじっくりと見せ聴かせて魅力的な曲でした。物語として見るとこの一曲を通じて何かが起きた(子供が見つかったとか、成仏できたとか)ということはなく、重衡の運命は最初からずっと最期(処刑)の日に向かっているだけで、そこに千手前が付け加えたり変えられたものは何もありません。そういう意味ではシテとツレとの一夜を情緒的に描くための曲であり、ツレの抑制された演技の中にも重衡の諦観やひと時の安らぎをしみじみと感じとることができたのですが、それにしてもこの日この舞台での鵜澤光師のシテは素晴らしく、重衡を深く思いやる千手前の様々な心の動きがその美しい舞や行き届いた所作を通じて手にとるようにして見所に伝わってきました。

鵜澤光師の舞台は一昨年の「井筒」を観て感銘を受けて以来ですが、私の中ではむしろ金子直樹氏の著作『僕らの能・狂言』で表明されていた強靭な覚悟の方が印象に残っていました。しかしこの日の舞台を観ると、もう自然体で十分にリスペクトを集められるポジションにおられるように思いますし、今後も折々に師の舞台を(それも鬘物だけでなく、たとえば修羅物なども)観てみたいとも思っています。

とは言つつもこの日、自分的に意表をつかれたのは、シテに加えて小鼓も女性(大山容子師)だったことでした。女性のシテ方は鵜澤光師はじめ何人か観ていますし、笛方でも大きな舞台をコンスタントに勤める女性はいます。しかし鼓方の場合は鼓を打つだけではなく掛け声も掛け、この掛け声がBGMに近い役割を担っているので、大鼓が男性・小鼓が女性だと混声合唱になり、そこにある種の驚き(悪い意味ではなく)が生まれます。もちろん男性でも声質はさまざまですが、やはり男性の身体と女性の身体は基本的に異なる楽器だと考える方が自然で、そこに難しさが生まれます。

とはいえ能舞台に上がる女性はこれからますます増えるでしょうし、そうなると地謡ですらも男女混合になる場面が出てくるでしょう(実際に一度見たことがあります)。これまで男性の低音を響かせることに力点を置いて発展してきた能楽の発声法の歴史に対し、混声でも自然に聞こえる声の出し方や混ぜ方、あるいは女声そのものの活かし方を開発するという新たな命題が生まれているという見方もできそうで、そういう意味でも興味深い観能体験でした。

なお、以下は自分のための備忘です。

  • 千手前は『平家物語』では駿河国手越宿の長者の娘で年は二十歳ばかり、ここ2、3年は女房として召し使われているとされており、「遊女」という単語は『平家物語』にも詞章の中にも出てきません。しかし宿駅は遊女を置き旅人の旅情を慰める場所でもあったことは遠江国池田宿の「熊野」の例にも明らかですし、中世の遊女は必ずしも売春を伴わない芸能者であって、むしろ普賢菩薩と結びついて聖性を帯びるともされます(「江口」)ので、本曲が作られた当時の感覚に即すると千手前が遊女であるというのは自明であり本曲の主題にも即したものなのかもしれません。
  • 宴にはなったものの朗詠に声を添えても自分の罪障が軽くなることもなかろうと物憂い様子だった重衡の心を開いたのは千手前の十悪といへども引摂す(十悪を犯した者も阿弥陀仏は極楽浄土へ迎えて下さる)という朗詠でした(巻第十「千手前)。これがいわば伏線となって、重衡の最期の場面では斬られる前に仏を拝みたいと願う重衡のためにそのへんにおはしける仏を一体持ってきたところ幸に阿弥陀にてぞましましけるということになり、重衡はこの仏に向かって十念を唱えてから斬られています(巻十一「重衡被斬」)。
  • その後の千手は、『吾妻鏡』によれば重衡が斬られた三年後に24歳で急逝したとされています。しかし『平家物語』では信濃国善光寺におこなひすまして、彼後菩提をとぶらひ、わが身もつひに、往生の素懐をとげけるとぞ聞えしとあり、ここに『平家物語』の作者の優しさのようなものを感じます。

配役

仕舞 「大江山」 清水寛二
「女郎花」 観世淳夫
「千手」 シテ・千手前 鵜澤光
ツレ・平重衡 小早川修
ワキ・狩野介宗茂 則久英志
杉信太朗
小鼓 大山容子
大鼓 安福光雄
主後見 西村高夫
地頭 浅見慈一

あらすじ

千手

一の谷合戦で捕虜となった平重衡は、源頼朝の家臣狩野介宗茂宅にて拘留され、世の無常を嘆く。朝敵といえど、重衡をいたわしく思う頼朝は、遊女の千手前を遣わし重衡の身の回りの世話をさせていた。春雨そぼ降る夕暮れ、酒宴の準備をしているところに、今日も千手が琵琶と琴を携え訪れる。南都焼討の重罪を悔い、出家も許されぬ身の果てを嘆く重衡。そんな重衡を千手は慰め、思いやる。宗茂の計らいで酒宴が始まると、千手は重衡の来世往生を願って朗詠歌舞する。やがて興に乗った重衡は琵琶を奏し、千手の琴と共に調べを楽しむ。心通わせた短夜も更け、重衡は処刑が待ち受ける都へ出立する時刻となり、千手は涙ながらに重衡の姿を見送る。