鶏聟 / 船弁慶

2023/07/09

宝生能楽堂(水道橋)で、下掛宝生流・野口敦弘師主催「華宝会」公演として狂言「鶏聟」と能「船弁慶」。

「華宝会」公演は昨年の同じ時期に「狐塚 / 鳥追舟」を観ており、そのときは「鳥追舟」の両ワキがポイントでしたが、今回は「船弁慶」の小書《船中ノ語》が見どころ・聴きどころとなります。

鶏聟

初めて観る狂言ですが、よくある聟入り物の一つです。最初に舅(山本東次郎師)と太郎冠者(若松隆師)が登場して、今日は最上吉日なので聟殿が来るからと掃除などして待つ様子。ついで聟(山本凛太郎師)と教え手(山本泰太郎師)が登場しますが、教え手はこの時点ではその場にいない態で舅と太郎冠者の間に着座し、聟が脇正にて語り始めます。曰く、今日は聟入りだがその作法を自分は知らないので日頃世話になっている人に習ってみよう。宿におられればいいのだが、と心配しながら教え手の家に着いて案内を乞うと、幸い教え手は在宅で聟入装束(侍烏帽子に紺地鶴文様の長素袍の礼装)を誉めそやしてくれたのですが、聟が作法を教えてほしいと頼むときに「そなたは再々聟入りをなされているので作法をよくご存知のはず」と言ったことが教え手の神経を逆なでした様子。再々聟入りをしているということは離縁・再婚を重ねているということになってしまいますが、実際は教え手が語るように舅のところへ初めて行ったときが聟入りで、その後も舅を訪ねているのは時候の挨拶に伺っているだけのことです。作法を書いたものがあるからしばし待てといったんその場を離れた教え手は「あの年になっても作法を知らぬとは」とおかんむりになった上で、いい加減なことを教えて当座の笑い種にしようと独白してから聟の前に戻りました。大昔・中昔・当世様の三種類あるがどれがいいか?と問われて当世様を選んだ聟に教え手が伝えたことは、舅の門外に行って案内を乞うときは鶏が蹴合う真似をせよ、謡い節に掛かって座敷に通り、舅と対面したときも再び鶏が蹴合う真似をせよ、それが当世様の「鶏聟」であるというもの。さらに烏帽子も鶏のトサカに似せたものにせよと舞台中央で後見に手伝わせ聟の烏帽子を立烏帽子に交換させて「一段とようござる」と聟を送り出した教え手は、さっさと橋掛リを下がっていきました。

教え手の真意を知らない聟は作法を習って喜び勇み「問うは当座の恥、問わぬは末代の恥というが、自分も問わずに来たら恥をかいたであろう」と独りごちつつ、いったん二ノ松まで進んでから一ノ松に戻ったところが舅の家の前。そこでまず案内を乞うことになるのですが、普通なら「物もう、案内もう」と呼び掛けるところを聟は習ったとおり「こうこうこうー、こきゃあこうこきゃあこう」と鶏の声を真似ながら両手をばたばたさせ、跳び上がって両足を前へ振り上げ(この動作が「船弁慶」での後場の知盛のひとつの所作に似ています)ました。この騒ぎに驚いて出てきた太郎冠者はそこにいる男から聟入りに来たと言われて舅にこの旨を報告したところ、一人しかいないことを不審がった舅はそれは先走りであろうと考えて太郎冠者にそのように応対させます。しかし、先走りも後走りもないと返されて舅はうーんとうなったものの、そのようなこともあるだろうと無理やり納得して太郎冠者に聟を通させました。

聟が座敷に通される際に「聟は舅の家に行き」と謡って足拍子を踏むと、舞台に居並んでいた地謡三人がこれを引き取って情景描写の謡を聞かせましたが、その重厚な地謡の内に颯爽と舞台へ進みでた聟はまたしても「こうこうこう」ばたばたと鶏の真似。これを見て驚き思わず腰を浮かせた舅に太郎冠者もうろたえた表情で先ほど門外でもあの通りだったと説明すると、誰かになぶられたものであろうと察した舅は太郎冠者に手伝わせて自分も烏帽子を交換しましたが、太郎冠者に「次の者(家人)に笑うなと言え、また汝も笑うまいぞ」と念を押すところがかえって笑えます。今度は舅が「舅はこれを見るよりも」と謡い、再び地謡が引き取って舅が聟の作法に付き合う様子を朗々と謡うと舅もまた「こうこうこう」と聟以上に迫真の鶏振りを見せて見所を沸かせました。以下、共に鶏の声を上げながら闘鶏よろしく軽やかに互いに回りあったところで聟が「もとより所もかかりなれば……」。この後に続く地謡の詞章がうまく聞き取れなかったのですが、柳、桜、それに常盤の松といった語を取り入れているのは「遊行柳」「鉢木」などの詞章を引用したものでしょうか?ともあれ、紅葉(これも後の《船中之語》と通じているかもしれません)にまがうトサカ蹴られて「かなわじ」と舅と太郎冠者がさっさと橋掛リを下がった後に、見事に聟入りをしおおせた(と思い込んでいる)聟は足拍子も勇ましく「勝鬨作って帰りける」と地謡に謡わせて舞台を巡り、最後に正先へすっと進むと「こうこうこう、こきゃあおう、くう〜」と鳴き納めました。

世間知らずの聟と心優しい舅というパターンは聟入り物の常道ですが、舅が聟に付き合って鶏の形態模写まで見せるというのは相当に突き抜けた親切さで抱腹絶倒。聟との鶏合せに負けて退散する舅の方がシテというのも納得です。さらに、たとえば侍烏帽子が立烏帽子にされたことが持つ意味(不自然?失礼?)や、聟が供を伴っていない=引出物を持参していないこと(このため舅は太郎冠者に「(舅側の)引出物は自分が言うまで出すな」と念押し)がしきたりにかなっていないことなど、この頃の行儀作法についての予備知識があればさらに楽しめただろうとも思えました。

それにしてもこの曲は地謡が狂言としては珍しいほどに活躍しており、その地頭は山本則俊師でしたが、切戸口からの出入りや着座の際、立ち上がるときなどに山本則秀・修三郎両師の手を全面的に借りておられましたから、何かの理由で身体に不自由を抱えることになった模様。にもかかわらず謡は朗々と響いていたことを嬉しく聴きつつ、師の快癒をお祈りしました。

船弁慶

観世小次郎信光作、見せ場の多い切能「船弁慶」はこれまで四度観ていますが、直近では2019年に金剛流(小書《白波之伝》付き)、その前は2016年に金春流で、それ以前の二度は観世流でしたから今回の宝生流での「船弁慶」は初めてです。とは言っても大筋においてそう大きく他流と異なるわけではないので、ここでは筋を追うことはせず観ていてのポイントとなったところを箇条書き風に列記するにとどめます。なお事前の予習は『日本古典文学全集 謡曲集 二』(小学館)によるほか、2016年の金春流・中村昌弘師による公演に先立って行われた講座の記録も参照しました。

  • 前場
    • 〔次第〕の囃子と共に登場した一行の出立は、子方/源義経(藪俊太郎くん)が紅白段の着付の上に側次、立烏帽子。ワキツレ三人も側次を着用していますが、ワキ/弁慶(野口琢弘師)は兜巾を戴く山伏出立ではなく角帽子に絢爛な文様の着付、水衣大口姿で両肩に結袈裟。
    • 舞台上にワキ・ワキツレ・子方が向かい合っての〈次第〉から弁慶の名乗リの後、義経の第一声判官都を遠近の云々を聞いて、その堂々たる謡いぶりにびっくり。見所の隅々まで朗々と声を届ける姿には風格すら感じ、その印象は終曲まで揺らぐことがありませんでした。
    • 弁慶に呼ばれて揚幕から登場した前シテ/静(宝生和英師)の出立は総模様の紅入唐織着流姿。都へ帰れと言われてあら何ともなや候とシオリを見せたものの、それが義経の本心かどうかを確かめるために舞台へ進む歩みの遅さには、まさかという気持ちともしかするとという不安との葛藤が見てとれます。しかし、意を決して正中に着座し向かい合った義経からも帰洛を命じられて、弁慶を疑ったことを詫びる静がどこまでも深く面を伏せる姿の絶望感は痛切。
    • ただ一さしと勧むればの後に折節これに烏帽子の候。これを召して一指御舞候えとあって地謡から弁慶が静烏帽子を受け取り、後見二人が前に出て物着。烏帽子の紐は「道成寺」と同様に片手で引けば解けるように結ばれています。しかる後にその時静立ち上がりと続きました(以前観た金剛流(下掛系)と同じ)。
    • 袖打ち振るも。恥かしやの後に〔イロエ〕は省かれず、大小前へ戻った静がくるりと素早く回る所作が美しい。その後に越王勾践と功臣范蠡(陶朱公)の故事を引いて義経も許される日が来るだろうと謡われる〈サシ・クセ〉から〔中之舞〕へと続くシテの一連の舞がこれまたすばらしく美しい。宝生和英師はどちらかといえば小柄だとされているのに、この舞台上でのシテの姿には見る者の目をそらさせない牽引力が感じられましたが、しかしその頂点で静は感極まったように遠く義経の方を向いて右手で二段シオリ(シオリカエシ)を見せました。
    • 船の纜ともづなを解いての別れの場面で、脇座で床几から立ち上がった義経と常座に立つ静とが中央に向かって互いに数歩進み、共に下居をして見つめ合う場面は、義経を子方が演じていてもなお別れゆく男女の哀惜の情が漂います。その後立ち上がった静は烏帽子の紐を引いてこれを落としシオリの姿で舞台を後にすると、一人静かに橋掛リを下がっていきました。
  • 中入
    • 静の姿が揚幕の向こうに消えたところで狂言座のアイ/船頭(山本則秀師)が静に同情する言葉を発した後、弁慶との打合せに基づき船出の用意。ここでワキツレ/従者(野口能弘師)から義経が出立を遅らせるつもりであることを聞かされた弁慶は、この状況でそのようなことはとんでもない、屋島に向けて船を出したときはたいへんな大風だったのに船出して平家を滅ぼしたではないかと反論するのですが、その音声がどんどん力強くなっていって最後は怒髪天を衝く迫力。
    • 弁慶の合図でアイは橋掛リを走り幕の内に入ると一瞬の内に船の作リ物を持って戻ってきて、まるで徒競走のカーブのように身体を傾けながらすごいスピードで舞台に駆け込むと脇座のシテの前に船をしつらえました。ここで義経・弁慶・従者・船頭が船に乗り(ワキツレ二人は船の左舷外側)、大小がアシラウ中で船頭は水夫たちの力強さを自慢しながら戦後の海運独占契約締結を談判。その後、櫓を漕ぐ船頭はいつもであれば武庫山(六甲山)の上にむつかしい雲を見て……となるところですが、小書《船中之語》により船路も静かだから合戦の様子を語ってほしいと船頭が弁慶に要望して、弁慶による物語リが行われます。船頭が「えいえいやっとな」と櫓を引き上げ、大小の鼓も手を止めて静かになったところで弁慶はそれ我が君の御武略以下、平家の一ノ谷布陣と西国武士の動向を語り、鎌倉の命を受け源範頼が大手から五万騎で攻めかかるのに対し義経が一万騎を率いて丹波路から鵯越を経て鉄拐山を攻め落とすことは人間の業ならずと感嘆、そして鬨の声や矢叫びが天地を覆う中、必死に防ぎ戦った平家の人々は遂に船で落ち行き長年の栄華も紅葉の如く散り失せたが、これも(と義経の方に向きを変えて)隠れもなき君の御手柄である、「なんぼう由々しき(畏れ多い)ことにて候」と語り納めました。
    • 続いて今度は弁慶が「今見えている山々は名所ではないか」と船頭に問い、義経の慰みのために語って聞かせてもらいたいと所望して船頭による《名所教》となります。まずは目付の方を見て生田の森、脇柱の方は観音霊場の摩耶山、その間に険阻なる一ノ谷・二ノ谷・三ノ谷、磯辺続きは須磨の浦、揚幕の方角は武庫山、そして再び目付の方は譲葉が岳。そのときこの場の空気を割くように鋭い大鼓の一打ちが入り、武庫山の上にむつかしい雲が出た……とここから常の船頭の台詞につながります。右の肩を脱ぎ、荒れる風や波を乗り切ろうと櫓を使いダンダン!と激しく足拍子を踏む(一方、櫓の先を海上に回して鎮めようとする所作はなし)船頭の姿は、頼もしいことこの上ありません。
    • 怯えた従者がこの御舟には妖怪あやかしが憑いて候と漏らしてしまい、弁慶が慌てて制止するのも間に合わず船頭の逆鱗に触れて「こいつは乗船時から何か言いたそうだと思っていたのだ」とコテンパンに言われ弁慶が代わりに平謝りするという、深刻なシチュエーションなのにコミカルなやりとりがこの日も出てきましたが、たとえ《船中之語》《名所教》がなくてもシテが装束を改める時間は十分にありそうなのになぜこのやりとりをわざわざ置いたのか(歌舞伎の「くすぐり」のようなもの?)作者に聞いてみたいものです。
  • 後場
    • 弁慶たちが海上に次々浮かぶ平家の公達の亡霊に驚いているところへ今更驚くべからず以下落ち着き払った義経の台詞が、またすごい。ここまで来ても子方の集中力がまったく損なわれていないことには、感心を通り越して驚かされます。
    • 後シテ/平知盛の出は、地謡の一門の月卿雲霞の如く。浪に浮かみて見えたるぞやを聞きながら弁慶が数珠を揉み始めるところへ半幕になって、床几に掛かった足元を見せつつ幕の内からそもそもこれは。桓武天皇九代の後胤。平の知盛幽霊なり。そして地謡声をしるべに出船のと共に登場した知盛の出立は黒い鍬形を立てた黒頭の下に怪士系の面、紫地に金箔の上衣(法被ではなく狩衣?)を肩上げにし白地に金の波文様の半切(模様大口?)。赤柄の長刀を手にして一気に義経に肉薄します。
    • 以下、舞台上で次々に見事な長刀捌きを見せ、跳躍して両足を前に出す型をも示して激しい動き(〔働二段〕)が続いた後そのとき義経少しも騒がず(子方は謡わず地謡のみ)と義経が立って腰の刀を抜き払うと、知盛は再び義経に迫ってこれと打ち合わせるものの、割って入った弁慶に数珠を揉み祈られて退散し、長刀を義経に向けながらも面を伏せ力を失う様子でしたが、いったん二ノ松まで逃れ長刀を捨て太刀に持ち替えます。気を取り直した船頭が「えいえい」と船を進め始める中、再び追いすがってきた知盛は義経と斬り合わせましたが、遂に退けられ太刀を肩に掛けて回ってから一気に揚幕へと下りました。最後はいったん下ろされた揚幕が再び半幕となり(したがってシテの後ろ姿を見せる、という風にはなりません)、留の太鼓の一打ちを聞いてから幕が下ろされて終曲です。

冒頭に記した通りこの公演は下掛宝生流・野口家の公演ですから、ワキ、そしてワキツレがいわば真の主役となるのですが、まずもって野口琢弘師の武蔵坊弁慶は迫力満点でした。師のビジュアルと声質は兄の能弘師と比べても強面な風が感じられますが、これが弁慶という役柄に見事にハマっている感じ。と言っても単なる荒法師というのではなく、たとえば静に帰洛を勧めたところ静から君の御大事になり候わば留まり候べしと言われてあら事々しやと声を荒げるその語気の強さは「今後の義経に大事などあってはならない」という主思いの裏返しでしょうし、朗々と語られた《船中之語》の中に義経の超人的な働きを賛嘆してやまないのも弁慶が義経に心服している様子を示します。この忠義心が一貫していてぶれないので、静が弁慶に疑ってすまなかったと詫びたときに「殿が心変わりをしたとは思わないで下さい」と慰めながら同情の涙をこぼしてもみせるわけですが、こうしてみるとこの曲の中では

  • 思い人として義経に執着する静(前シテ)
  • 敵として義経に執着する知盛(後シテ)
  • 忠臣として義経に執着しつつ、これら二者を義経から遠ざけようとする弁慶(ワキ)

という義経を中心とした人間関係の構図ができあがっていて、弁慶の人物像がそう単純ではないことがわかります。

ところで、この公演はこうした上演の趣旨を離れてもすべての演者がそれぞれの役柄において期待以上の役目を果たしていて、純粋に素晴らしい舞台だったと思いました。特に前シテの舞の美しさと深い感情表現(これがあるから後場との対比が生きる)、子方の文句なしの大活躍、そしてアイも船の進行と共に舞台をも進行させる存在感を示し、さらに囃子方も含めて全員が対等の立場で舞台を牽引していたように見えました。

最後に一つだけ問題指摘をしておくと、配布された詞章(A3サイズ表裏の各面に横三列で掲載)は表面が前場から中入まで、裏面が中入後を記しているものの、表面最後のところは「ワキとアイの問答で船を出すことになる」とト書きになっているためにとまどった観客がバサバサと紙をひっくり返す音が断続的に響き渡ったことです。詞章を紙で配ればどうしてもこういうことになるので、せめてA3の横通しではなくA4サイズごとに三段にして紙を大きく広げずにすむようにするとか、上演中は観客に詞章を読ませることは諦めて終演後に配布する(先日の「山井綱雄之會」はこのやり方でした)とか、何らかの工夫がほしいと思いました。

配役

狂言大蔵流 鶏聟 シテ/舅 山本東次郎
アド/太郎冠者 若松隆
アド/聟 山本凛太郎
アド/教え手 山本泰太郎
地頭 山本則俊
宝生流 船弁慶
後之出留之伝
船中之語
名所教
前シテ/静 宝生和英
後シテ/平知盛
子方/源義経 藪俊太郎
ワキ/武蔵坊弁慶 野口琢弘
ワキツレ/従者 野口能弘
ワキツレ/従者 吉田祐一
ワキツレ/従者 則久英志
アイ/船頭 山本則秀
松田弘之
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 安福光雄
太鼓 小寺真佐人
主後見 小倉健太郎
地頭 朝倉俊樹

あらすじ

鶏聟

これから舅の家に聟入の挨拶に行く聟だが、世問知らずで作法を知らない。そこで親しい人に教わりに行くが、失礼なことを言ったため、相手を怒らせ、とんでもない作法を教え込まれてしまう。太郎冠者に命じて支度をさせ、聟の訪問を待ちかねていた舅は、聟が奇妙な作法を始めたため驚くが、誰かにだまされたのだろうと気づき、聟に恥をかかせまいと珍妙な作法につきあってやる。

船弁慶

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