建立900年 特別展「中尊寺金色堂」

2024/03/22

東京国立博物館で「建立900年 特別展『中尊寺金色堂』」。金色堂内陣の諸仏は昨年11月の四寺回廊巡礼の際にも拝見しているのですが、金色堂の中ではガラス越しにやや遠く拝むだけなので、より近くより仔細に見ることができるのならと上野に足を運んでみました。着いてみればすごい人気で本館の前には長蛇の列でしたが、展示されている点数は多くないので意外にスムーズに列が前に進み、さほど待たずに入場することができました。

さて、本展の公式サイトにおける「展覧会概要」は次の通りです。

中尊寺金色堂は藤原清衡(1056~1128)によって建立された東北地方現存最古の建造物で、2024年に天治元年(1124)の上棟から900年を迎えます。これを記念して開催する本展では、堂内中央の須弥壇に安置されている国宝の仏像11体を一堂に展示するほか、かつて金色堂を荘厳していた国宝・金銅迦陵頻伽文華鬘をはじめとするまばゆいばかりの工芸品の数々をご紹介します。また、会場内の大型ディスプレイでは8KCGで原寸大に再現された黄金に輝く金色堂とその内部を間近にご覧いただけます。世界遺産・平泉の迫力のある文化と歴史の粋をどうぞお楽しみください。

展示室に入るとまず正面に大きなディスプレイがあって8KCG画像の前に人だかりができていましたが、これは最後に見ることにして右側へ進むと、展示室内の中央のスペースに仏像が林立し、壁沿いには経典や工芸品が並んでいました。どちらから見始めてもよいのですが、まずは壁沿いに右から左へとぐるっと回ってみることにします。

最初に展示されていたのは中尊寺建立供養願文〈重文〉で、現代に伝わる藤原輔方筆(鎌倉時代)と北畠顕家筆(南北朝時代)の二つの写本のうち後者がこの日は展示されていました。そこに書かれていることは、戦乱の中で数多の死と向き合ってきた清衡が死者の霊を弔い鎮護国家を願って大伽藍を設け法会を執り行うというもの。ただしそこに記された伽藍の構成は現在の中尊寺に当てはまらず、未確認ながら金色堂南東の谷にある大池周辺に伽藍跡が隠されているのではないかと考えられているそうです。また、この願文には金色堂への言及がありませんが、それは金色堂が鎮護国家のためではなく清衡自身の極楽往生を願った私的な葬堂だったためだと考えられます。

深い紺色の料紙の上に金泥字と銀泥字で一行おきに一切経を書写し、見返しにも金銀泥を用いて経意を絵画で表現する紺紙金銀字一切経(中尊寺経)〈国宝〉は、かつて経蔵に安置されていたもの。願文によれば五千三百巻余りが制作され、中尊寺建立供養に際し530人の僧によって転読供養が行われたということですが、豊臣秀吉の奥州仕置に際してそのほとんどが持ち去られて今は大半が高野山金剛峯寺にあり、中尊寺に残されているのは二十五巻にすぎません。それでも、こうして残された中尊寺経を見るとその美しさは特筆もので、金字の輝きもさることながら銀字が黒ずみを見せずに文字通り銀色に光っていることに驚きました。また、この中尊寺経の近くに展示されている金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅〈国宝〉もすばらしく、紺紙の上に金泥で描かれた九重の宝塔は『金光明最勝王経』の経文の連なりにより、一方その周囲に描かれている小さな人物や風景はさまざまな顔料でカラフルで、いずれもその稠密無比の出来栄えに息を呑みました。

さらに壁沿いに回っていくと、清衡の遺骸が納められていた金箔押木棺〈重文〉や副葬品、工芸技術の粋を示す金銅迦陵頻伽文華鬘〈国宝〉、金銅幡頭〈国宝〉、さらには天蓋〈国宝〉、各種仏具や金具、瓔珞の残欠、諸尊の台座や光背の残欠などなど国宝のオンパレード。これらをちょっと駆け足で眺めた後に、いよいよ仏像を拝見することにします。金色堂の中には中央・西南(左奥)・西北(右奥)の三つの須弥壇があり、それぞれの壇上に11躯ずつの仏像が安置されていますが、今回上野にやってきたのは冒頭に引用した「展覧会概要」に書かれている通り、中央壇の仏像です。

まず阿弥陀三尊像は、ふっくらと穏やかなお顔立ちの阿弥陀如来坐像〈国宝〉を中心に、向かって右に観音菩薩立像〈国宝〉、向かって左に勢至菩薩立像〈国宝〉。実際の展示ではそれぞれ独立して展示されているため近づいて仔細に観察することが可能で、両脇侍が手に持つ蓮花の形の細かな造形も面白く眺めました。これらはいずれも金色堂創建時の作と考えられていますが、阿弥陀如来の螺髪が逆V字型に刻まれていたり右肩にかかる袈裟が別材で作られていたりと、当時としては先進的な造形が施されているのだそうです。

そしてこれら三尊の前には左右に三躯ずつ、合わせて六地蔵を形成する地蔵菩薩立像〈国宝〉が置かれています。これも仔細に見ると一体ごとに頭と身体のプロポーションや顔立ち、手足の角度などが異なっていて、意外にバラエティに富んでいました。

最前列の二天王立像〈いずれも国宝〉は向かって右が持国天、向かって左が増長天とされていますが、口の開閉などから本来は像名が逆で配置も左右逆だった可能性が指摘されているそうです。見ての通り実に躍動感あふれる姿で、袖の翻りなどは今まさに腕を振り上げたところのようですが、単眼鏡で拡大して見るとたとえば小さな耳の形のリアルさなど細部まで神経が行き届いた造形の緻密さにも感嘆します。この二天の役割はもちろん須弥壇の守護ですが、同時に葬堂としての金色堂において清衡の遺骸を守護する役割も担っていることになるわけです。

会場には年表や解説も掲示されていましたが、この仏像の配置図(図録から引用)はとりわけ興味深く見ました。金色堂はもともと清衡の遺骸を安置する中央壇だけを持つ姿で創建され、後に二代・基衡、三代・秀衡の遺骸を納める西北壇と西南壇が増設されて今の配置になっていますが、三壇の制作年代は中央壇→西北壇→西南壇の順であるのに対し、それらの中に安置されている遺骸は中央=清衡、西南=基衡、西北=秀衡と泰衡(首級)であると推定されています。そしてこの図は三壇上の仏像がもともとどこに置かれていたものだったかを示しており、これによれば今回展示されている中央壇上の十一躯のうち阿弥陀三尊像は当初からのものであるのに対し、六地蔵と二天はその造形が三尊像に比べて時代を下る特徴を示すことから西北壇にあったものだと考えられているそうです。

こちらは昭和の大修理(1962-68年)の際に制作された五分の一模型。これだけは撮影可能です。

腰を屈めて正面から見ると扉の奥に須弥壇を見通すことができ、その前面に孔雀と宝相華を浮き彫りにする格狭間はあたかもそこを通して極楽浄土を垣間見せる窓のよう。覆堂で覆われていなかった創建当時の金色堂の堂内には、背面の扉から入る西日が須弥壇上の諸尊を背後から照らしたのではないかという話も聞いたことがあります。また、横に回ってみると屋根の構造がわかるようになっていますが、この屋根は重量を軽減するために木瓦で葺かれており、そこに金箔が施されていた可能性もあるものの痕跡が確認されていないために昭和の大修理では素地を露出したままにとどめています。そのかわりこの模型では屋根の前側だけに金箔を施して「こうだったかもしれない」という姿を示していますが、この金色堂が東に向いて遠く北上川沿いの平泉館から眺められる作りであったことを考えると、屋根までも金色に輝いていたと考える方が自然のようにも思えます。

▲岩手県立世界遺産ガイダンスセンター柳之御所資料館で見た解説。(2023/11/27撮影)

最後に展示室入り口の巨大ディスプレイで8KCG画像により西北・西南・中央のそれぞれの壇上を迫力の接近映像で見上げて、四寺回廊巡礼時にはガラス越しに遠く眺めるしかなかった仏像群の集積度を目の当たりにして圧倒されてから、図録とグッズを買い求めて満ち足りた気持ちで東京国立博物館を後にしました。