膏薬煉 / 屋島

2024/06/26

銕仙会能楽研修所(南青山)で青山能。仕舞二番と狂言「膏薬煉」、能「屋島」。

まず仕舞二番は源平ゆかりの「敦盛クセ」(柴田稔師)と「船弁慶キリ」(馬野正基師)。前者は一門が都落ちしてやがて須磨に侘び住まいをするさまを敦盛が哀愁をこめて語る場面、後者は大物浦を船出した義経一行の前に知盛の幽霊が現れて長刀を手に激しく迫る場面で、ことに「船弁慶」の迫力は見所にいても圧倒されるものがありました。この「敦盛」も「船弁慶」も海辺〜海上を舞台にしていますが、6月20日に銕仙会能楽研修所で開催された事前講座で講師の原瑠璃彦先生(著書『洲浜論』(作品社 2023年))が解説されたところによれば、謡曲において海辺という場所は「陸と海、この世とあの世、人と神、男性と女性、生と死、源氏と平家」のあわいであり、能舞台自体が白洲と松羽目を持つことで洲浜に通じる構造なのだそうです。

膏薬煉

源平の話である「屋島」に合わせて、狂言も鎌倉と京都の争いを描く「膏薬」。10年前に野村又三郎師のシテ(都の膏薬煉)で観ていますが、今回は上方が野村太一郎師、鎌倉が内藤連師というフレッシュな組合せです。話の中身は前に観たものとほぼ同じですが、唯一はっきり違っていたのは鎌倉の膏薬が引き倒された(ここで内藤連師が見事に前転!)後の言い訳で、10年前のそれは「石につまづいた」であったのに対し今回は「松やにに滑った」でした。

ともあれ前半の系図(由緒)や薬種(原料)の荒唐無稽さと後半の大げさな所作がそれぞれに楽しい曲ですが、後者は少々あざとさが鼻につく感がなきにしもあらず。それよりも鎌倉の膏薬が語る系図の説明の中で、名馬生食いけづきが逃げ去る姿の変化を馬→犬→猫→雀にたとえる遠近法の表現が実に面白く、鎌倉の膏薬の先祖が山椒の根(京都のときは芥子粒)ほど引きちぎった膏薬を親指の腹に張って息を吐きかけ生食に向けるとこれに引かれて戻ってきた生食の姿が先ほどとは逆に雀→猫→犬→馬の大きさになってぴったりと指の腹に吸い寄せられたと自慢したときには、まるで目の前に馬が駆け寄ってくる姿が見えるようでした。

屋島

この曲を観るのは三年ぶり三度目。初めて観た2010年は梅若玄祥師(当時)、二度目の2011年は武田宗典師がシテで、前者には《弓流》《語掛》《継信語》、後者には《弓流》《奈須與市語》の小書がついていましたが、今回は小書なしのプレーン(?)な「屋島」です。

こじんまりとしたこの能楽堂の空間を圧するかのごとく強い〔次第〕の囃子に導かれて登場したワキ/旅僧(則久英志師)一行。月も南の海原や、屋島の浦を尋ねんと〈次第〉を謡ってからのワキの名ノリに続く道行の謡は、例によって則久英志師の品のよい美声にワキツレ二人が声を重ねて心地よく耳に届きます。しかし、続いて登場した緑の縷水衣のツレ/漁夫(青木健一師)と朝倉尉(出目栄満作)に茶の絓水衣のシテ/漁翁(観世淳夫師)(シテ・ツレ共に釣竿を右肩に担げ腰蓑を着用)が短い橋掛リで向き合って夕暮の漁村の風情を謡う場面は、大音量かつ性急な大小鼓の打音にかき消され気味。上述の事前講座の中で淳夫師は前場の雰囲気作りを大事にしたいという趣旨のことを言っていたと思うのですが、これはいかなこと。私の席が正面席右端と橋掛リから遠い位置だったせいもあるのでしょうけれど。

ともあれ、舞台に進んだシテとツレがさらにしみじみと海辺の情景を描写して春や心を誘ふらんと述懐した後、常座に床几が持ち出されてシテはこれに掛り、ツレはその右後ろに下居したところで、ワキからの呼掛けを受けることになります。ここは《弓流》の場合は後半の相引での床几を強調するために床に着座するところで、武田宗典師もそうしていましたが、梅若玄祥師が床几を用いていたのは今から思えば身体への負担軽減のためだったのかもしれません。それはさておき、ワキからの塩屋に泊めてほしいとの要請をツレが取り次いで一度は断ったものの、一行が都から来たことを聞いたシテはなに旅人は都の人と申すかと驚きワキに向かってさらばお宿を貸し申さん。さらに「などか雲居に帰らざらん」「都と聞けば懐かしや」と都への思いを溢れさせてシオル姿に哀愁が漂います。

しかし、いにしえの合戦の様子を語ってほしいというワキの求めに応じて中央で床几に座り直したシテのいでその頃は元暦元年……以下の〈語リ〉には老人とは思えぬ力がこもり、先ほどまでの漁翁とは別人のよう。義経の美々しい出立を眼前にあるかの如くに描写し、ツレも加わっての錣引の力比べも迫真。立って角へ進んだシテが能登守教経の矢を受けた佐藤継信の落馬を強い足拍子で示し、常座から正中に戻るうちに地謡がテンポを落とし、鬨の声が絶えて磯波松風ばかりとなるところで中央に着座したシテに後見二人が近づいてシテの水衣の肩を下ろします。あまりに詳しいその語リを不思議に思ったワキが名を尋ねると、シテは「よしつね」の名をほのめかしつつ、修羅の時となったら名乗るから夢を覚さないようにと念を押しつつ、ツレを伴って静かに中入しました。

この曲でのアイ/屋島ノ浦人は塩屋の本物の所有者で、勝手に塩屋に入っているワキたちにクレームをつけるところから始まるというのが面白いところですが、そこは徳を積んでいる則久英志師……もとい、旅僧のこととて、戦いくさ物語をワキに求められるとアイ(中村修一師)は素直に応じて居住まいを正し、景清と三保の谷の錣引を語って聞かせました。ここも以前観た二度の機会ではかたや《継信語》、かたや《奈須與市語》の仕方話でしたから、常の形である錣引での間語リを聞いたのはこれが初めてだったのですが、先ほどのシテの語リよりもはるかに詳細なその語りは仕方を伴わなくても十分に写実的で、見所の緊張の糸が緩むことはありませんでした。

アイの勧めを受けて逗留を決めたワキ一行が暁間近の夢の中に入っていくと強いヒシギが舞台上を修羅の時に引き込み、そこに現れた勝修羅出立の後シテ/源義経の面は平太(北沢一念作)、法被は紫地に四花菱、半切は橙地に亀甲花菱。出てきた瞬間から気迫全開で妄執の瞋恚のために今なお修羅の巷に戻ってくる我が身の罪業の深さを力強い足拍子で示します。過去に観たときにはその正体が理解できなかったシテの執心は、事前講座での解説によれば勝ち戦の回想=名声を残すことへの執着とのこと。この説明の通り、床几に掛かっての〈クリ・サシ・クセ〉で語られる弓流しの逸話には命を惜しまず名をこそ惜しむ義経の気概が描かれ、緩やかなテンポでじっくりと謡われた〈クセ〉の後半で立ち上がったシテが轟かせる足拍子の響きからは、その小柄な体躯にもかかわらず堂々たる威風が感じられました。

しかし、間髪入れずに聞こえてきた修羅道の鬨の声矢叫びの音を耳にしたシテが舞台狭しと駆け回る〔カケリ〕になると舞台上の空気は一変して、宿敵・平教経に取り憑かれるように壇ノ浦の戦場へ引きずり込まれる義経の緊張と高揚とが溢れ出し、海上で素早く太刀を振るうシテにはもはや眼前の敵しか見えていないよう。淳夫師と地謡が掛け合う切迫感に満ちた謡と凄まじいまでの型の連続に息を飲むうちにやがて夜が明けてきてシテが太刀を捨てるとさしもの闘争の一時も終わりを迎え、敵と見えたのは鷗の群、鬨の声は松に吹く浦風となって舞台上は一気に鎮静に向かいます。常座に回ったシテが左袖を返し留拍子を踏んで、大小の鼓が最後の一打を完璧なシンクロで打ち放った後には、静寂の中に深い余韻だけが残りました。

青山能恒例の終演後の小講座は、今日は谷本健吾師が講師。解説のポイントを箇条書きにすると次のようでした。

  • 源義経を主役とする能は、この「屋島」だけ。世阿弥ほかの能作者は、芸能者という低い身分にある者の目線からあえて著名ではない武将を影のヒーローとして取り上げている。
  • 子方の最初はだいたい「鞍馬天狗」の花見稚児で、そのうち一番大きい者が義経になる。ここから能楽師にとっての義経ストーリーがスタートし、「船弁慶」「正尊」の子方を経てやっと「屋島」に到達する。
  • 「屋島」の後シテはあれだけ動きが多いので若い頃にやる役ではあるが、実はそこに至るまでこうした長い経験を重ねてきた上でのひとつの節目でもある。自分が「屋島」のシテを演じることになったときにも「やっと屋島ができる」と思ったものだが、皆さんにも子方の成長とリンクさせてこれらの舞台を観ていただければ幸い。

配役

仕舞 敦盛クセ 柴田稔
船弁慶キリ 馬野正基
狂言 膏薬煉 シテ/上方の膏薬煉 野村太一郎
アド/鎌倉の膏薬煉 内藤連
屋島 前シテ/漁翁 観世淳夫
後シテ/源義経
ツレ/漁夫 青木健一
ワキ/旅僧 則久英志
ワキツレ/従僧 御厨誠吾
ワキツレ/従僧 渡部葵
アイ/屋島ノ浦人 中村修一
栗林祐輔
小鼓 大山容子
大鼓 柿原孝則
主後見 観世銕之丞
地頭 長山圭三

あらすじ

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