蝸牛 / 唐船

2024/06/30

国立能楽堂で「金春流能楽師 中村昌弘の会」の第八回。これまでに私が参加したのは第二回の「船弁慶」、第四回の「二人静」、第五回の「角田川」、第六回の「鞍馬天狗」、第七回の「海人」、そして今回が六度目です。

開演前に別途開催された事前講座は、前回の「海人」のときと同じく後藤和也氏 (能楽研究家・金春流地謡方)の解説。短時間のうちに「唐船」の詞章を追いながら絶妙の横道話で聴衆の興味をそらさず、予定されていた講義時間はあっという間に過ぎていきました。しかし前回もそうでしたが、膨大な情報量のためにメモを取るのがけっこう大変です(笑)。

  • 「唐船」について(大講義室で・順不同)
    • 「詞章」の「詞」は文句、「章」は節のこと。詞章とは節(旋律)のついた文句である。そして笛は今は間奏として吹かれるが、室町時代は伴奏であった。その頃の笛は今のものと構造も異なり、旋律を吹きやすくなっていた。
    • 「唐船」は室町時代に八回演じられた記録があり、戦国時代は豊臣秀吉も(プロンプター付きで)舞っている。その頃はある程度の年齢になった役者が子の役を演じていたはずだが、明治になって小さい子に限定したので上演機会が減ってしまったのはもったいない。
    • 「船の争い」とは応永の外寇(1419年)のことを指す。史実ではその十三年後に日明貿易が再開されている。また「牛馬の野飼」とは一種の労役刑である。
    • 一セイの台詞は入るタイミングが難しい。今日のリハーサルでも危うかったので、ハラハラしながら見守っていてほしい。次にサシはもと指声と書き、情景を指さすかのごとくに揺らしながら謡うものだった。今のような淡々とした歌い方になったのは明治になってからだ。また、唐子たちが箱崎への到着を謡う上歌もリハーサルでは沈没しそうだった。がんばれと声には出せないが、心の中で応援してあげて下さい。
    • 通常、神・鬼・霊の登場に使う一声が現在物なのに多用されているのがこの曲の特徴の一つ。作者の癖なのだろうか。また、悲しいことをはっきり悲しいと謡うのも特徴で、世阿弥のようにもって回った面倒くささがない。
    • 日本子の登場まで読んでくると、この曲の中にその母(日本妻)が出てこないことを不思議に思うだろう。これは、昔は一曲の上演時間が30分くらいと短かったので書きたいことだけに絞り込んでいるためだ。その後、上演時間は徐々に長くなったが、だからと言ってあれもこれもと盛り込むと近年の多くの新作能のように失敗する。能は人生の一断面をすぱっと切り取るものだ。ちなみに江戸時代に日本子が母を迎えにきて中国へ連れ帰るという「箱崎物狂」という曲も作られたが、人気が出ずに番外曲になっている。
    • ロンギ〜問答を読むと、箱崎あたりの風景描写があまりうまくないことがわかる。これはこの地に土地勘のない者が書いているからだろう(cf.「鵜飼」)。さらに沖の船を指し示す場面があるのは、この曲が橋掛リがあることを前提として作られていることを示す。同様に橋掛リを効果的に用いる曲として「蝉丸」「俊寛」がある。
    • 物着は今はシテ方が行うが、戦前は物着せという専門職がいた(記録上は昭和18年@興福寺が最後)。これが消えたのは、増加する公演数をこなすためにシテ方が物着せを覚えざるを得なくなったためだろう。舞台上ではなく中入時に衣装を変える際の間狂言は、世阿弥の頃は短かったのにその後装束が立派になって着替えに時間がかかるようになると間狂言も長くなり、江戸時代には装束を替える技術が高まって間狂言が短くなる。このように、間狂言の台本の変遷を見ると装束の変遷もわかる。
    • クセが非常に短いが、これは楽の長さとのバランスをとるため。そしてクセが終わり最後の場面で船に本当の帆が張られる。
  • 能舞台について(大講義室で / 舞台の前で)
    • 地謡の横の床に傷がついている。これは囃子方と地謡とが拍子が合わなくなったときに扇を立てて床に打ち付けて拍子を揃えていたからかもしれない。金春流では地頭が指で拍子を合わせるので、他流の能楽師によるものだろう。
    • 大小の前には大きな丸い跡がついている。これは道成寺の鐘が落下したときにつく跡だ。ちなみにこの鐘は狂言方が竿で吊り上げるが、これが失敗したときに平然と「うまくいかなかったでござる」と語って再度吊り上げるのを見たことがある。狂言方はこのように、舞台の進行に際して臨機応変な対応が求められている。

事前講座を終えて食堂でおいしい鰻重をいただいてから見所の脇正面の席に落ち着きましたが、開演直前に見回してみると席の埋まり具合は六割ほど?とりわけキャパの大きな国立能楽堂でこれだけ集客できるのも立派ではありますが、それでもこれこそもったいないことだと思いました。

まず公演の冒頭に金子直樹先生による「解説」のコーナーがあり、先生が「唐船」を観たことがある人に挙手を求めましたが、手を挙げたのは私を含めてたぶん10人くらい。そのことが示すように「唐船」は上演機会が少なく、先生も観世・宝生では何度か観ているものの金春流で観たのは1987年の本田光洋師のときだけだという話がまず披露されました。その後「唐船」のストーリーとその時代背景をかいつまんで説明した後、「ストーリーだけ追えばお涙頂戴だが、これをきちんと様式の中に織り込んで見せるところが能のすばらしさ。中村昌弘師はとても上品に能を舞う方なので、今日もドラマを胸に描きながら美しく表現してくれると期待している」とエールを送りました。

ついで仕舞二番は唐物の「枕慈童」を中村昌弘師(地謡は本田芳樹師)、「天鼓」を喜多流の佐々木多門師(地謡は大島輝久師)。曲趣の違いのためかもしれませんが、前者は穏やかな雰囲気が舞台上から見所へと溢れ出るような空気感を持ち、朗々と謡い続けた地謡が最後に「入りにけり」と音程を高めていった後には仙境に漂うような心持ちになったのですが、後者になるとあたかも観客の感傷を弾き返すように、表情厳しく気迫のこもった舞と地謡とが舞台上に別宇宙を生じさせた感がありました。なお、上述の事前講座の中で金春流と喜多流との所作の違い(舞台に入るとき金春流は右足から・喜多流は左足から / 金春流では地謡は扇を膝の前に下ろし喜多流は腰の前に水平に構える)の説明がされていたのでついそこに目が行ってしまったのですが、いずれも舞と謡の見事さがそうしたことをすぐに忘れさせてくれました。

蝸牛

狂言「蝸牛」は2014年に山本則重師のシテ/山伏で観ていますが、今回は則重師の弟である則秀師がシテ。その筋書きは10年前の記録に書いてあるのでここでは繰り返しませんが、これを読み返してみると舞台を観た後の感想が今回とまったく同じだったことに自分で驚いてしまいました。

そのときと今回とで共通して心に留めていたのは、主人に無理難題を強いられた太郎冠者のぼやき、与えられたわずかなヒントからあろうことか山伏を蝸牛だと思ってしまう早とちりのおかしさ、その太郎冠者に一度は脱力させられながらもなぶってやろうと蝸牛になりすます山伏(「角を出す」というところではさすがに考え込んだものの、結袈裟の房を持ち上げて角に見せかける様子が抱腹絶倒)の口調に含まれる笑いの気配、太郎冠者と声を合わせて囃し踊る場面で発揮する山伏の驚くほどの身体能力の高さ。

そして金子直樹先生の解説では「理屈抜きで笑ってほしい」とされていたにもかかわらず、最後に主と太郎冠者の二人が操られるように踊り狂いながら山伏に導かれて橋掛リを下がっていく、その光景に感じるある種の怖さまでも、10年前と同様でした。

休憩の後、仕舞「楊貴妃」は金春安明師がひっそりと。これもまた唐物ですが、安明師が舞うと何を舞っても時が止まったような「ザ・ワールド」になるのは本当にすごいことだと思います。

唐船

上述の通り上演機会が少ない曲ですが、私は2016年に観世流で一度観ています。流儀の違いに伴い詞章などにも異同があることと思いますが、大筋では変わるところはないので、ここではアバウトに筋を追いつつ、観ていて目を引かれた点をピックアップすることにします。

まず〔名ノリ笛〕に導かれアイ/太刀持(山本凛太郎師)を伴って登場したワキ/箱崎の何某(大日方寛師)は、黒地の直垂上下出立。役柄を反映して終始武張った口調での名乗りから太刀持との問答となります。続いて〔一声〕の囃子に導かれて登場するソンシ・ソイウの唐子二人とアイ/舟子(山本則秀師)は賑やかな文様の側次を(アイはつば無し帽も)着用して中国風。アイが緑の船べりを持つ大きな船の作リ物(唐船専用モデル)を一ノ松あたりに設え、そこに入って向き合った唐子二人の〈一セイ〉が最初の難関でしたが、これは見事なタイミングで謡い出せたのでは?その後の〈サシ〉以下もしっかり声を出して謡えており、無事に箱崎までの渡海をこなせたようです。ところで2016年の舞台ではこの渡海の際にも帆柱を立て帆を掲げていましたが、今回は立ち上がったアイが櫂を使うさまを示すだけ。確かにクライマックスで初めて帆を張るこの日の演出の方が劇的効果が高いように思いますが、その劇的効果を〔楽〕の後のアイ方に渡すのがいいかどうかは別問題ですし、この違いは誰のどのような考え方によるものなのかも気になるところでした[1]

さて、舟子・太刀持・ワキのやりとりがあって今度はワキとソンシとの問答になりますが、これまたソンシは臆することなくワキと対峙してやがて引き合わせ申そうずるにて候という言葉を引き出すと、ソイウと共に後見座にクツロギました。この場面のワキは強く引き締まった語り口を(相手が子供だからと言っても)些かも緩めていませんから、ワキと向き合うソンシにも芯の通ったところが求められますが、ソンシを演じた中村優人くんはその堂々とした口調で自身の人間力を示していました。そしてこの間に舟子は船の作リ物を橋掛リの二ノ松あたりの見所から遠い方の欄干に立て掛けて、ここで橋掛リの上は東シナ海から箱崎郊外の牛馬放牧場へと役割を変えることになります。

〔一声〕の囃子と共に現れたのは、今度は華やかな腰巻裳着胴出立にお揃いのポニーテールも可愛らしい日本子二人と、尉面の上に唐帽子、水衣の肩を上げて労役中の体を示すシテ/祖慶官人(中村昌弘師)。三人とも手には牛飼いの道具らしき紐や短い鞭(?)を持っています。ここから橋掛リの上での掛合いや同吟があって、地謡の下歌・上歌を挟んで〈ロンギ〉へと膨大な量の詞章が子方に割り当てられているのですが、日本子二人の謡は「謡」というより「歌[2]」と書きたくなる豊かな旋律に乗って見事なシンクロを見せ、ことに最初は無邪気に父の故国のことを質問していた二人がやがて父を思いやる様子にはすっかり心を動かされてしまいました。

シテ一行が箱崎に戻ったことが地謡によって謡われるうちに日本子二人は笛前へ、シテは常座にそれぞれ進み、牛飼いの道具を後見に渡したところでシテはワキからソンシ・ソイウが尋ねて来ていることを聞かされます。このときシテは声にわずかに驚きを滲ませましたが、ワキに促されて舞台中央から橋掛リを見やり、そこにある(という設定の)船を眺めるとさらに前のめりの姿勢。唐子たちに対面する前に身繕いしたいとシテは舞台上に着座して後見の手によって水衣の肩を下ろしましたが、この間に後見座の日本子二人も立ち上がって船のある場所へ移動し、物着を終えて立ち上がったシテが彼らにいかにあれなるは唐土に残しおきたる兄弟の者かと呼び掛けたときにはその声にはっきりと興奮の色が現れました。そして地謡を聞きつつ舞台に進んだ唐子二人は目付柱の近くに前後して立ち、中央に下居してワキに手を合わせるシテを挟んで笛前の日本子二人と対称の位置関係を作ります。

追風が吹いてきたので早く船に乗るようにという舟子とソンシの声に促されてシテが乗船しようとしたとき、危うく見捨てられそうになって立ち上がった日本子二人のあら悲しやわれをも連れておん入り候へは、それまでとは打って変わっての早口に切迫感がこもり、シテの船に乗るようにという言葉を暫く!と遮って日本子の乗船を禁じたワキの命令に対するあら情なのおん事や云々には抗議の気持ちを含む悲痛な訴えが聞き取れました。しかしワキはとかくの問答無益なりと取り付く島もなく、ここから出航を急かす唐子と止めようとする日本子、それらの板挟みになるシテの三者の間で畳み掛けるように短い言葉の応酬が行われて緊張感が高まると、〈クリ・クセ〉の中で絶望に囚われたシテが巌にあがりて十念し、すでに憂き身を投げんとして正先へ進んだその刹那、左右から二人ずつの子らが駆け寄ってシテの袖に縋り付きます。何という劇的な瞬間!と息を飲んでいると、思いとどまったシテは子らを見下ろしてから後ろへ下り、唐子・日本子も元の位置に戻って全員が下居したところで、シテが袖で顔を覆いました。

これを見たワキがようやく日本子の同行を認め、シテとの問答から地謡がシテの喜びを謡う間に、舟子は船を舞台上へ移動させて斜め(舳先が中正面を向く方向)に置きました。そして二組の子供たちがそれぞれの位置から船の艫側を回り込む美しい動線を舞台上に描いて右舷側から乗船すると、船の後ろ半分には舟子・唐子二人・日本子二人がぎっしりとひしめき座ってまるで宝船のような賑々しさ。さらにシテも船の後ろを通って常座を通るときに扇を唐団扇に持ち替え、ここから太鼓が入って船上での〔楽〕が始まります。

この〔楽〕は体感で15分ほども続いた長大なもので、作リ物の船の前半分だけという狭いスペースの中で舞われましたが、始めのうちは十三年に及んだ抑留生活の重みのためかゆったりとしていたものが、徐々にテンポが上がると共に所作が大きくなって遥けき海を渡って故国に帰ることができる喜びが前面に現れ、最後は舞台上も見所も祝祭感で満たして舞い納められました。かくして立ち上がったワキが扇を開いてユウケンで一行を見送り、シテも唐団扇を振って別れを告げて、一路唐土を目指すべく舟子は太い帆柱を船中に立て綱を引いてカラフルな縦縞の帆を上げ始めたのですが、ここでどうしたことか帆が外れてすとんと落ちてしまいました。しかしこのアクシデントにアイは少しも騒がず、自らの手で帆を持って立ち上がり追い風をいっぱいに受ける様子を示してから、そろそろとこれを下ろします。そしてシテが船から右舷側に出て脇正面方向を遠く見やる型となり、太鼓の最後の一打ちで終曲となりました。

附祝言が謡われた後に舞台上が無に帰ってこの日の公演は終了しましたが、公演全体を通してみても「唐船」だけを取り上げてみても、見事な出来栄えであったと思いました。「唐船」が上演機会が少ないのは、しっかり演じることができる子方を四人も揃えなければならないというハードルが高いためですが、今回の子方のうちソンシを演じた中村昌弘師次男の優人くん(小五)以外の三人は昌弘師が稽古をつけている子供たち(男子は小六・女子は小四)だという話ですから、昌弘師の日頃の熱心な能楽普及活動がこういう形で実を結んだというわけです。これはとりわけ高く評価されていいことではないでしょうか。

中村昌弘師については、もちろんアクターとしてまずは応援しているのですが、それと同じかそれ以上に、エバンジェリストとして、あるいはプロデューサーとしての師の活躍ぶりに目を見張らされることが少なくありません。それはいつもこの会で顔を合わせる旧友ヨシコさんも同様ですが、この日の終演後に彼女と駅前のカフェで語り合った感想は次のようになりました。

  • 子供たちは実に立派だった。男の子たちは少々落ち着きのなさが出たが、女の子たちは謡といい所作といい完璧としか言いようがない。中村昌弘師も、きっと今夜はビールがうまいに違いない。
    • でもお父さんがみすぼらしい姿なのに、日本子が豪華絢爛な格好でいいのかしら?←ヨシコさん
    • それにしても彼女たちは可愛かった!←私
  • 最後に帆が落ちたのには驚いたが、アイの落ち着き払った対応はさすがだった。これこそまさに(事前講座での話にあった通り)臨機応変だ。
  • 事前講座も含めてとてもお買い得な会で、中村昌弘師ご自身が本当に奮闘しておられるご様子なのに、ちょっと空席が目立ったのは残念。
  • シテの言葉の中に牽牛が出てきたが、我々も年に一回の中村センセの会のときだけ顔を合わせているので、牽牛と織女のようなものですなあ。←自分たちの年齢のことは棚に上げています。

室町時代の日明外交と能狂言

上述の通り「唐船」を観るのはこれが二度目でしたが、事前に中村昌弘師のXでのポストによって知った『室町時代の日明外交と能狂言』(西原大輔著)を読んだことによって、前回とは異なる味わいがありました。この本はまだ買い求めたばかりで全体を読み通せていないのですが、今回の「唐船」に関わる記述をかいつまんで紹介すると次のようになります。

  • 前提知識
    • 能の作者は、パトロンである足利将軍に最大限の配慮をする必要があった。特に脇能は、慶事に際して統治者の治世を寿ぐためのものである。
    • 14世紀後半から15世紀前半の能の大成期は、日明間で通商が盛んに行われる一方、朝貢や柵封、倭寇を巡る緊張関係が生じていた時期でもある。その中で足利義満は対明接近、続く義持は対明断交、そして義教は遣明船再開という風に外交政策は大きく揺れ動いた。「唐船」など日中・日朝関係を描く能にも、こうした政策の変遷が反映されている。
  • 「唐船」
    • 冒頭に描かれる唐土と日本との争いと双方の拿捕抑留から十三年目という設定は、十数年に及んだ対明断交の期間を踏まえている。
    • 詞章から窺える祖慶官人の人物像は、寧波(明州)で海運交易に従事する富裕層であり、倭寇被虜人として日本に抑留されたものであろう。この頃こうした外国人は少なからず日本に住んでいた。
    • 箱崎の何某は海外交易で栄えた箱崎の実力者であり、倭寇と見なしてよいだろう。そして倭寇にとって、身代金と引換えの捕虜返還は極めて実入りの良い商売だった。箱崎の何某が二人の唐子の申入れを快諾した理由はここにある。
    • 日本子二人との会話の中で祖慶官人が七夕の日にしか織女星と会えない牽牛星を引き合いに出しているのは、彼の唐子に対する愛着を示すもの。しかし、父のそうした気持ちを敏感に察して日本子二人が落ち込んでいることに気づいた祖慶官人は「いやとよ」と言葉を翻して「帰国の事も思はず」と心にもないことを言っている。一方、この日本子との会話の中で祖慶官人は日本のことを「九牛が一毛」と見下しているが、祖慶官人が唐子と再会したとき人々が「唐土は心なき夷の国と聞きつるにかほどの孝子もありけるよ」と随喜したという記述には、当時の日本人にとって大陸中国が当然に崇め奉るべき存在ではなくなっていることが示されている。
    • 祖慶官人が日本子をも連れ帰ろうとしたときに箱崎の何某がこれを拒んだのは、下人の子は主人に帰属するという中世の通念と共に、出生地主義国籍観が当時通用していたことに由来する。にもかかわらず、板挟みになった祖慶官人が身を投げようとしたときに日本子を連れ帰ることを箱崎の何某が認めたのは、本人の言にある「物のあはれを知らざるはただ木石に異ならず」といった綺麗事ではなく、ここで祖慶官人が死んでしまっては唐子から身代金を受け取ることができなくなるという損得勘定に基づくものである。
    • 最後は祖慶官人と四人の子供たちが楽しげに出航していく。このように「唐船」は足利義教の遣明船再開を予祝した能であり、義持の日明断交時代には到底上演できない内容である。
    • この曲の作者には諸説あるが、世阿弥の長男である観世元雅とする説が有力である。そしてこの曲の中に登場する唐子とは、世阿弥の甥であり芸養子であった観世元重(音阿弥)を指すと考えられる。一時は世阿弥の後継者と目されていた元重は、世阿弥が実子・元雅を観世大夫としたことでこの二人と距離を置くようになり、義教の庇護の下で世阿弥父子を圧倒する権勢を獲得することになるが、その義教の将軍宣下を祝う演能の中で初演されたと推測される「唐船」は、元雅方と元重方の観世大夫両座から子方が出て演じられ、双方の子方が共に父の国へ向かうというハッピーエンドの中に元雅による両座融和の願いがこめられていたのかもしれない。しかし事態はその逆に進み、この二年後に元雅は伊勢で客死し、世阿弥も数年後に佐渡に流されて「唐船」とは逆の結末となってしまった。

これはいわゆる「諸説あります」のうちのひとつでしょうし、演者がここで書かれた解釈にどこまで同意するか(しないか)は演者自身の裁量の範疇です。とはいえ、本書は「唐船」の他にもいくつもの能と狂言を取り上げていて、目次に記された曲名とサブタイトルを並べただけでもさらなる興味が湧いてきます。

  1. 《白楽天》-華夷秩序を拒絶
  2. 《放生川》-朝鮮撃退の祝賀能
  3. 《唐船》-遣明船再開の予祝
  4. 《呉服》-外交方針転換を賛美
  5. 《善界》-混血二世の葛藤
  6. 《岩船》-日本中心型華夷観
  7. 《春日龍神》-最高聖地としての日本
  8. 狂言《唐相撲》-異国趣味の政治学

配役(「唐船」の役名は本公演のフライヤーの記載による)

仕舞 枕慈童 シテ 中村昌弘
地謡 本田芳樹(山井綱雄代演)
天鼓 シテ 佐々木多門(喜多流)
地謡 大島輝久(喜多流)
狂言大蔵流 蝸牛 シテ/山伏 山本則秀
アド/主 山本則孝
アド/太郎冠者 山本泰太郎
仕舞 楊貴妃 シテ 金春安明
地頭 金春憲和
唐船 シテ/祖慶官人 中村昌弘
子方/唐子 中村優人
子方/唐子 畔上徹
子方/日本子 野村遥花
子方/日本子 甲賀優月
ワキ/箱崎の某 大日方寛
アイ/箱崎の下人 山本凛太郎
アイ/船頭 山本則秀
藤田貴寛
小鼓 田邊恭資
大鼓 森山泰幸
太鼓 梶谷英樹
主後見 本田光洋
地頭 高橋忍

あらすじ

蝸牛

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唐船

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脚注

  1. ^公演翌日の「コマラジ」での中村昌弘師の番組で聴いたところでは、ここは明州河をおし渡りという詞章に即し、帆を出さずに櫂を使って河を下るさまを見せることにしようという話し合いがなされたということでした。
  2. ^祇園祭の宵山で歌われるわらべ歌を連想。あれよりははるかにゆっくりと、柔らかく謡われていましたが。