皸 / 船橋

2023/01/14

2023年最初の観能は、雨の国立能楽堂での普及公演で狂言「皸あかがり」と能「船橋」。

最初に成城大学教授・大谷節子先生による解説・能楽あんない「力動風鬼から砕動風鬼へ-世阿弥による「船橋」改作の意図-」がありました。すらっとして上品な語り口の先生の説明の内容をかいつまんで記すと次の通りです。

  • 「船橋」は『申楽談儀』『三道』の中にもともと田楽の能だったものを書き直したと記されており、世阿弥はこの書き直した「船橋」を砕動風鬼の代表曲だとしている。世阿弥の大きな仕事の一つは、鬼能を改作して形は鬼でも人の心を持つ砕動を作った点にある。
  • 改作前の形は残っていないが、本説は『万葉集』にある歌とそこから生まれた歌物語だと考えられる。その歌は上つけの佐野の舟橋取り放し 親は離くれど我は離るがへで、女性の立場から「親は引き離したが私は一緒にいたい」と歌っているが、世阿弥による詞章の中では東路の佐野の舟橋取り放し 親し離くれば妹に逢はぬかも(已然形+「ば」=「親が引き離したので会うことができなくなった」)と男の立場からの歌に変わっている。この形の歌は本曲以前には見つかっておらず、16世紀の和歌の手引書『釣舟』の中に親は離けずば妹に逢はむかも(未然形+「ば」=「親が引き離さなければ会うことができるのに」)とあるのも能の影響かもしれない。
  • 「船橋」は一見シンプルなストーリーのように見えるが、よく読むと船橋から男女が落ちる話が前場と後場で繰り返され、「葛城」に描かれる葛城明神(役行者に命じられて橋を架けようとする)が引用され、キリでは三途の川橋も登場して、かくのごとく「橋」のモチーフがさまざまに盛り込まれている。
  • もと力動風鬼の能として地獄の責め苦を与える鬼の姿を描く恐ろしさの能だったであろうこの曲を、世阿弥は苦患を受けている人の心を描く砕動風鬼に改めた。世阿弥は「船橋」をふるまうたる松の風になびきたるようにすべしと語っている。この日もそのように演じられることだろう。

あかがり

以前和泉流で観ており、そのときの表記は「」。川に落とされるオチが続く「船橋」に通じます。

茶の湯があって遠出することになった主(善竹大二郎師)が太郎冠者(善竹十郎師)に供を命じるところは和泉流と同じですが、前回はここで太郎冠者が外出を渋って次郎冠者に命じるようにと断ろうとしたのに対し、今回はすんなりと供につくことになります。しかし増水している川に差し掛かったところで自分を背負って渡れと命じられた太郎冠者は、持病のあかがり(=あかぎれ)のせいで水の色を見ても六根にしみわたるので勘弁してほしいと抵抗しました。何のためにお前を連れていると思っているのだと強く迫られても頑としてきかない太郎冠者に主は怒り心頭ですが、ふと話題を変えて太郎冠者が初心講で歌をうまく詠むらしいことを持ち出すと、あかがりを題材に詠んでみろ、うまく詠めたら自分がお前を運んでやろうと持ちかけます。恐縮して背負われることは辞退する太郎冠者に、主は「まず詠め」。

あかがりは春は越路へ帰れかし 冬こそあしのもとに住むとも

あかがりは弥生の末のほととぎす うづきまわりて音をのみぞ鳴く

和泉流とは微妙に異なるものの同趣向の二首を読んだ太郎冠者は約束通り主の背に負われることになりますが、太郎冠者は「私を負うと思うと腹も立つだろうが、天神を負い奉ると思し召せ」と予防線を張ります。それでも体格のよい善竹大二郎師に背負われた善竹十郎師のいかにも心細そうな様子に、見所は大笑いになりました。

かくして太郎冠者を背負った主は「えいえいやっとな、ちゃんぶり」と川に踏み込みましたが、深みへと進んでゆく主に背中の太郎冠者がおろおろしていると、そこで主は改めて太郎冠者に歌を詠めと強要します。どうやら主は途中で心変わりしたのではなく最初から太郎冠者を懲らしめようと思って川に踏み込んでいたようですが、そうとは知らない太郎冠者は上ずった声を震わせながら次の歌をひねり出しました。

あかがりは恋の心にあらねども ひびに増さりて悲しかりけり

一応はこの歌を褒めたものの、主は太郎冠者に「昔から下人が主が背負うためしはあっても主が下人を背負うためしはない」と叱って「こうしてやる!」と太郎冠者を川に落とし(舞台上に膝を突いた善竹大二郎師の背から善竹十郎師がごろりと転がり)ます。そのまま主は橋掛リを下がっていき、残された太郎冠者がほうほうの態でくさめ留め。

わずか10分の小品でしたが、たった一つ主の命令を断ったばかりにひどい目に会う太郎冠者の狼狽ぶりを巧みに演じた善竹十郎師と、その力強い発声が舞台上に心棒を通すようだった主の善竹大二郎師とのやりとりが面白く、楽しい狂言でした。

なお上記の三首の和歌の文言はプログラムに書かれていたものですが、善竹十郎師はこれらの歌がうまく出てこず、三首共に文言を間違えたり言い直したりしていました。特に三首目はひびに増さりてとすべきところをうづきめぐりてと二首目の文言を(二首目も三首目も「まわりて」→「めぐりて」とした上で)繰り返してしまい、その不調が心配になりました。

船橋

今回この「船橋」を観ようと思ったきっかけは、昨年11月に類曲「女郎花」を観たことです。「錦木」と共に男女間の恋慕の情が登場人物を苦しめる点で共通するこれらの曲のうち、「船橋」は親に仲を引き裂かれた男女の悲恋を描くもの。その悲恋とは、夜になれば川にかかる船橋を渡って愛しい女のもとに通っていた男が、そのことを喜ばない双方の親によって橋の板を取り外されていたことを知らずに渡ろうとして川に落ち亡くなるというものです。成就しない求婚を描く「錦木」の舞台は陸奥国の狭布(現在の秋田県鹿角市)、夫婦の行き違いが悲劇を生む「女郎花」は京都南郊の男山(現在の京都府八幡市)、そしてこの「船橋」は上野国の佐野(現在の群馬県高崎市)であり、舞台となる川は利根川支流の烏川とされています。

〔次第〕の囃子と共に山伏出立のワキ/山伏(福王和幸師)とワキツレ二人が登場し、舞台上で向かい合って山また山の行く末や、雲路のしるべなるらんと謡うと地謡がこの〈次第〉の詞章を繰り返しますが、この地取の間にワキは細かい爪先捌きを見せ、その後の道行の間にも山伏であるためか端々にきびきびと様式的な所作が入るように見えました。松島平泉を見るために三熊野から陸奥へと向かう途上の三人は美濃・尾張を経て今や上野こうずけの国佐野に到着し、ここで休憩をとることにします。

一転してゆったりと〔一声〕が奏され、蕭条たる笛の音に引かれて橋掛リに登場したのは紅入唐織着流女出立に小面を掛けたツレ/里女(佐々木多門師)と掛素袍大口出立の前シテ/里男(塩津哲生師)。前シテが直面なのは「錦木」と共通です。橋掛リの上で向かい合って法による、道ぞと作る船橋は、後の世かくる頼みかなと〈一セイ〉を謡った後にツレ佐野の川波立ち隔てシテ/ツレ誰浮き名のみ、残すらんを入れてから両名はやがて舞台上に進み、いったん正中にツレ、常座にシテという配置になって無常感を漂わせながら生死の海を渡る船橋、誠の橋を渡そうと謡い、その中でシテが中央へ、ツレが角へと動きました。

ここでシテの方からワキに対し橋勧進に応じるようにと声を掛け、問答の内に東路の……の歌が引用されて、そこに詠まれた二人の後世を救うための勧進なのかとワキは納得。するとツレがあなたは山伏なのだから協力しろと詰め寄って険悪な空気になりかけたところを、シテがまあまあと割って入って「葛城」に描かれる役行者(山伏の祖)の石橋の説話を持ち出し、さらに紀州の佐野の渡りを歌った藤原定家駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし 佐野の渡りの雪の夕暮を引用するうちにワキは脇座へ、ツレは地謡前へ着座し、一人舞台上に立つシテは正面に出て川を見渡してから常座へと移動しました。

ワキから『万葉集』の歌に「取り放し」「鳥はなし」と二様に解釈されているのはなぜかと問われたシテは、大小前に着座して思い出すように少しの間をとった後に、ワキの質問に正面からは答えず昔の男女の悲恋をしみじみと物語ると、その男が地獄の責め苦を受けていることをワキに告げました。ここからの〈クセ〉は、まず沈み果てられない魂が鬼と化して一層の恋慕の情に焦がれているのは自分のことでありその跡を弔ってほしいと地謡に謡わせ、上ゲ端以降であたりが夕暮れの情景となるさまを描写するうちにシテは前へ出てから常座に回り、ここでヒライて静かに中入。一方、ツレは後見座にクツロギます。

間語リ(善竹忠亮師)は、先ほどシテが語った通り男が板を外された船橋から落ちて死んだことに加え、男の訪れが遅いことを心配した女も橋へ出たために川へ落ちたことを明かし、これを嘆いて二人の死骸を探そうと思った親たちが沈んだ死体の上では鶏が鳴くという言い伝えを聞いて鶏を求めようとしたものの佐野には鶏がいなかったために願いが叶わず、ここから「取り放し」「鳥はなし」の二様に詠まれることとなったと説明する長大な、そして聞き応えのあるものでした。

アイが舞台を去ってから、ワキ・ワキツレの三人は身を起こして正面に向き直り古りにし跡をあらためて、三宝加持の行ひに、五道の罪も消えぬべき、法の力ぞ有難きと力強く祈ります。すると〔出端〕の囃子となり、後シテ/里男の霊が登場すると共に後見座のツレも立ち上がって常座からワキに向かいました。ツレはワキの祈りによって一足先に成仏できた喜びに法の力か船橋の、浮かむ身となるありがたさよと感謝しましたが、一ノ松へ進んできたシテの方は黒頭に筋怪士面、金の法被の右肩を脱ぎ、黒地に金の波濤文様の半切を着して背に金の打杖を挿した怨霊の姿。妄執のために未だ成仏できずに三途の川の橋柱に立てられているのでその有様をお見せしようと述べたシテは、左袖を掲げて空を見上げる型を示しつつ小野篁泣く涙雨と降らなん渡り川 水増さりなば帰り来るかにを引いてから舞台に進み、成仏への希求を謡いました。これに対しワキがさらに昔を懺悔するように勧めると、ツレも懺悔によって真如の月も出でつべしとシテを励まし、ここからシテの溺死の場面が再現されることになります。

まずワキとワキツレが地謡前に移動し空いた脇座にツレが着座してシテと向かい合うと、足拍子を伴うシテとツレの掛合いで今宵も女のもとを尋ねようとする男の心情を謡ってからの〔カケリ〕。角から正面に回り、中央で二回転ののち正先に出てから下がって三回転。冴え渡る夜の月も半ばにと左袖を被き、その後の描写を地謡に委ねて一ノ松へ移動したシテは、彼方のツレの姿を見て欄干に寄り心嬉しや頼もしやとユウケンと足拍子。しかしツレを目掛けて足早に舞台に進んだシテは中央に達したところで放せる板間を踏み外しとがっくり膝を突き、一度は立ちあがろうとするもののかつぱと落ちて沈みけりと再び膝を突いて力を失い、舞台中央で安座の姿になりました。

ツレが東路の佐野の船橋取り放しと上の句を歌う間に扇を腰に差し背の打杖を取り出したシテは親し離くれば妹に逢はぬかもと下の句を続け自分が執心の鬼となったことを謡い、キリの詞章の中でも邪淫の妄執によって悪鬼となり我が身を責め苦患に沈んでいた自分の姿を正中での足拍子やさまざまな所作で示しましたが、遂にありがたい祈禱の功徳によって成仏できたと常座で打杖を捨てて合掌する姿を見せて、最後に浮かめる身とぞなりにけると幕の方を見ながら留拍子を踏みました。

上演時間は85分と比較的短い曲でしたが、詞章の中に様々な和歌や「夢の浮橋」「浮舟」といった『源氏物語』を想起させる文言を織り込みながらも一曲全体を通して遠い『万葉集』の世界観を再現し、クライマックスの懺悔の中に描かれる深い恋慕とよもやの悲劇からその後の成仏へと昇華していくこの曲の構成の妙に、まずもって惹きこまれました。またシテの塩津哲生師の謡はもう少し声量がほしいと思いながら聴いていたのですが、シテが船橋から足を踏み外して川に落ち、もがき苦しみながら溺れていく様を描写する迫真の演技には慄然。そしてこのとき、いつの間にか自分はシテに対して深く感情移入させられていたことに気付いたのでした。

この日、国立能楽堂では終演後に字幕システムを用いたアンケートが実施されました。アンケートの主題は能楽堂内の食堂や売店のサービスに対する満足度調査でしたが、今年が国立能楽堂開場40周年ということもあっての意欲的な取組みだと受け止めました。

配役

狂言大蔵流 シテ/太郎冠者 善竹十郎
アド/主 善竹大二郎
喜多流 船橋 前シテ/里男 塩津哲生
後シテ/里男の霊
ツレ/里女 佐々木多門
ワキ/山伏 福王和幸
ワキツレ/山伏 矢野昌平
ワキツレ/山伏 村瀬提
アイ/里人 善竹忠亮
松田弘之
小鼓 曽和正博
大鼓 國川純
太鼓 前川光範
主後見 狩野了一
地頭 香川靖嗣

あらすじ

→〔こちら

船橋

山伏の一行が上野国佐野の里に着くと、その里の男女が現れ、橋の建設のための寄附を乞う。男は、万葉集に登場する、昔この船橋で女と逢瀬をし橋板を外されて川に落ち死んでしまった男の故事を語ると、自分こそその男の幽霊と明かして消え失せる。夜、山伏が弔っていると男女の霊が現れ、山伏の回向を喜び昔のありさまを再現して見せる。