弱法師
2023/01/28
矢来能楽堂(神楽坂)での金春流円満井会定例能のうち、この日観たのは第1部「弱法師」。シテは中村昌弘師で、この曲は初見です。また、神楽坂にあってこじんまりと趣のある矢来能楽堂を訪れるのはこれが二度目で、前回観たのはやはり中村昌弘師による「杜若」でした。
まずは金春安明師による素謡「翁」。笛柱を背に五人の地謡と共に鱗形を作って目付柱の方に向かい着座した金春安明師は、深く長い拝礼の後に誠に神秘的な発声で「翁」を謡い、「天下泰平国土安穏」「萬歳楽」とは言いつつも、そこに能が生まれる前からの長い年月を通じて命脈を保ってきた呪術の如き気配を漂わせました。
弱法師
河内国高安の長者の息子・俊徳丸は継母の呪いによって失明し落魄するが恋仲にあった乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、という「俊徳丸伝説」をベースとし、観世元雅が主人公の清澄な心がもたらす父子再会劇として構成したものが能「弱法師」、高安通俊の後妻玉手御前と俊徳丸の関係に焦点を当ててドラマチックに脚色したのが人形浄瑠璃及びそこから歌舞伎に移植された「摂州合邦辻」。後者は坂田藤十郎丈の玉手御前で観ていてまあドロドロでしたが、今日は気品のある芸風の中村昌弘師ですからそうはならないはずです。なお、父子の再会劇という点では「丹後物狂」「高野物狂」もそうですが、これらはいずれも子方を探し求めて物狂う男がシテなのに対し、この「弱法師」は探される方がシテという点が決定的に異なります。
さっと幕が上がると共に〔名ノリ笛〕。素袍上下のワキ/高安の通俊(殿田謙吉師)が舞台へ進み、一緒に出てきたアイ/通俊の従者(吉田信海師)はいったん狂言座に着座します。トノケンさん、ますます頬がこけたような気がするなぁと思いつつ見ているうちにワキの名乗リとなりましたが、ゆったり謡われる名乗リに翳りは見られません。俊徳丸が追われた理由を「さる人の讒言により」とさらりと流し、後悔したワキが天王寺[1]で七日間の施行[2]を行っている旨を語って、アイにこの日満願の施行を行う旨を触れさせます。すらりと背が高い吉田信海師の触れは小さな矢来能楽堂の見所を圧するほどの音量で、これが終わると吉田師はいったん狂言座に戻ってからただちに退場しました。
〔一声〕の囃子と共に幕の前に登場したシテ/俊徳丸(中村昌弘師)の姿は、黒頭の下に弱法師面、明るい緑の水衣の下の縫箔も緑色系で、手には盲目であるがゆえの杖。三ノ松に立ったシテは出で入りの、月を見ざれば明け暮れの、夜の境をえぞ知らぬ
以下、中村師らしい歌心を感じさせる長大な謡で自らの不遇をしみじみと嘆き中有の闇に迷うなり
とシオリを見せましたが、もとよりも心の闇はありぬべし
以下気持ちを変え天王寺へ参ろうと杖を突いて歩き出すと、舞台に入ってシテ柱の横に立ったときに身体の向きを右へ回し杖先をシテ柱に触れさせて石の鳥居ここなれや
と鳥居を探り当てる形を見せました。
ここでワキが立ち、貴賤が集まる境内の様子を描写してから、おや、例の弱法師(よろめき歩く乞食坊主)だなとシテに目を留めましたが、シテの応答に風情を感じてまずは施行を受けるようにと勧めます。これに応じたシテはふと脇正面側に向きを変えてや、花の香のきこえ候
。籬の梅の花と見てとったワキをシテは(「咲くやこの花」の歌[3]に歌われた)難波津の春なのだから(梅などと言わず)ただ「この花」と呼べば良いではないかと咎めつつ、それでも杖の上に両手を組んであら面白の梅の匂いやな
と花の香りに感嘆していると、ワキもげにこの花を袖に受くれば、花もさながら施行ぞとよ
と呼び掛けてシテが右手で引いて広げた左袖の上に扇をかざして花の施行を行う形となり、ここから地謡(初同)による花盛りの長閑な春に与えられる仏法の恵みのありがたさが謡われる間にシテは杖を突きつつ舞台を一周してから中央に着座して杖をそっと床の上に置きます。
続く〈クリ・サシ・クセ〉はあたかも天王寺のPRコーナー[4]で、とりわけ力のこもった地謡がシテと共に聖徳太子による天王寺建立の縁起を述べ、その鐘の音が響き渡るように仏の誓願があまねく広く満ちていくと謡ううちに、シテは居グセながら彼岸に渡る舟を遠く見やり、あるいは面を伏せて鐘の音に耳を澄ませる形を示してから海山もみな成仏の姿なり
と合掌。するとワキは独白の体で、これは自分が失った我が子ではないか、盲目となり痩せ衰えて不憫なことだが、昼は人目もはばかられるので夜になったら名乗って高安へ連れ帰ろうと語ると、シテに呼び掛けて日想観[5]を勧めます。これに対しシテは床の上を探って杖を取り、立ち上がって地謡の方向に左手を差し伸べ心あてなる日に向い、東門を拝み南無阿弥陀仏
と語ったのでワキがここは西門だぞと驚いてみせると、シテは天王寺の西門から極楽の東門に向かうのだからおかしくはないと反論。それもそうだと感心したワキが脇座に着座すると共にシテは角へ進み、しみじみとした笛の音を聞きつつ杖で足元を確かめながらのイロエとなって気持ちを次第に高め、さらに大小前から目付柱の方角を見やりあら面白や
とまだ目が見えていた頃の難波江の様子を思い出すと、日想観によって脳裏に映る難波江の情景にたびたび向かう方向を変えながら高揚していきます。中でも幕の方を遠く見やって伸び上がるようにしながら紀伊の海までも見えたり見えたり
と声を弾ませ、地謡が満目青山は心にあり
と謡うと共にシテが伸ばした左手をぐっと胸元に引きつける力強い型をきっかけに、観ているこちらの目がシテの心眼と重なって舞台と見所が一体になりました。おう、見るぞとよ見るぞとよ
と興奮したシテは難波の海の致景の数々を、揚幕の方角に南の住吉の松、中正面には東の草香山、さらに脇座に近づき北の長柄の橋と数え上げ、そのまま舞台を回って常座に戻るとかなたこなたと
せわしなく杖を突き揺れながら脇座方向へ歩み続けましたが、そのときがくんと身を止め左手を突き出す型で人に突き当たった様子を示すと杖を取り落としてしまいます。我に帰って床の上の杖を探り当て、これを胸に抱き抱えて立ち上がったシテからは先ほどまでの高揚が消えており思えば恥かしや、今は狂い候わじ、今よりはさらに狂わじ
と静かに正中に沈み込んで杖を床の上に置きました。
夜になり人もいなくなった境内の情景を示す笛の音と共に立ち上がったワキは、シテの前に下居してその名を問い、高安の俊徳丸であるという名乗りを確かめてから自分は父の通俊であると明かします。こわいかに
と驚いたシテは自分を恥じ、杖を手にして立つとその場から逃がれようと橋掛リを目指しましたが、背後から追いついたワキが左袖をとりこれを引き留めて何をか包む
。いったん正面を向いたワキは鐘の音に耳を傾けるようにしばし身体を斜めに構えた後、夜の明けぬうちにとシテを先に立てて橋掛リに送り込み高安の里に帰りけり
と常座で高々とユウケン扇をしてから留拍子を踏みました。
不遇のうちに視力を失った俊徳丸は、それでも中盤までは梅の花の香りを愛で、仏法を礼賛する心の気高さを保っていましたが、日想観を通じて心眼に映る景色に心を昂らせ、その頂点に至ったときに人に突き当たりよろめき転んで現実に引き戻され、暗く心を閉ざします。通俊が名乗ったことで俊徳丸は父との再会を果たし、高安の里へと帰郷する一応のハッピーエンドなのですが、しかしそれでは俊徳丸は達観し得ないままに後の人生を歩まざるを得なくなったのではないのか?と思うとどこか終わりきっていないような感じもします。そのためかどうか、ワキが留拍子を踏んだとき一ノ松あたりを歩み続けていたシテの後ろ姿に、寂しげな風情が漂っていたように思いました。
ともあれ「弱法師」がここまで深いドラマ性を備えた曲だとは知りませんでしたが、これが観世元雅の作品らしさということなのかも?もっとも、この曲の成立時にはツレ/俊徳丸の妻がつき、ワキは天王寺の住職で、高安通俊はワキに随う僧と共にワキツレという位置付けだったそうですから、一曲の味わいは今とはずいぶん違っていたのかもしれません。
膨大な詞章と情感の変化を伴う謡や数多くの印象的な型、さらに盲目ならではの杖捌きの数々をこなさなければならなかった中村昌弘師本人の目線で見れば、そこには演じ手としてまだまだ越えなければならない遥かな高みが聳えているのだろうと思いますが、見所から鑑賞した自分の立場からすれば、柔らかく美しい謡や昂りの中にも損なわれない品位といった中村師の美徳がこの曲のシテに求められる精神性を体現した好舞台だったと思います。
配役
素謡 | 翁 | : | 金春安明 | |
能 | 弱法師 | シテ/俊徳丸 | : | 中村昌弘 |
ワキ/高安の通俊 | : | 殿田謙吉 | ||
アイ/通俊の従者 | : | 吉田信海 | ||
笛 | : | 一噌幸弘 | ||
小鼓 | : | 観世新九郎 | ||
大鼓 | : | 佃良太郎 | ||
主後見 | : | 横山紳一 | ||
地頭 | : | 高橋忍 |
あらすじ
弱法師
河内国の住人・高安通俊は、かつてわが子を追い出してしまった悔恨の念から、作善として四天王寺の境内で乞食たちに施しをしていた。そこへやって来た盲人・弱法師の風流心ある様子を見ていた通俊は、それこそわが子のなれの果てだと気付く。やがて日没の時刻となり、春の彼岸にあたる今日、寺の西門・石の鳥居には多くの人々が集まり、沈みゆく夕日を見て西方浄土に思いを馳せる「日想観」を行っていた。弱法師もまたその座に連なると、夕陽に照らし出された難波浦の致景を心に思い描き、興に乗じて舞い戯れはじめるが、通行人と衝突して転倒してしまい、盲目の身という現実に打ちのめされてしまう。やがて夜になり通俊は父だと名乗り出ると、恥じ入っていた弱法師の手を引き、我が家へと連れて帰る。