日本画に挑んだ精鋭たち-菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ-

2023/08/12

山種美術館(広尾)で「特別展 日本画に挑んだ精鋭たち-菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ-」。

山種美術館のサイトにおける本展の開催趣旨は、次の通りです。これを読めば「日本画に挑んだ」というちょっと不思議な言い回しの意味が伝わるはず。

明治時代に入り、西洋文化を取り入れつつ社会の近代化が進む中、画家たちは西洋画に匹敵、あるいは凌駕する日本の絵画を生み出そうと努めました。創設された日本美術院(院展)では、実験的な表現に取り組む画家たちがいました。大正・昭和時代を迎えると、政府主導の官展や画壇の中心にいた院展に対抗する画家が、青龍社(東京)、国画創作協会(京都)など美術団体を立ち上げ、画壇に大きな旋風を巻起こしました。

戦後には敗戦の影響も受け、それまでの日本画に対する価値観が社会的に問い直されて「日本画滅亡論」を唱える声も出るようになります。画家たちは強い危機感と葛藤を抱きながら日本美術の伝統と向き合い、逆境を乗り越えようと、さまざまな表現や技法の探究を続けました。

本展では、輪郭線を使わない技法「朦朧体」で空気の表現を試みた横山大観の《波上群鶴》(個人蔵)、菱田春草の《雨後》、女性が画家として生きる道を切り開いた上村松園の《牡丹雪》、希少な岩絵具の群青を大量に用いて記念すべき展覧会(第1回青龍展)へ出品した川端龍子の《鳴門》、10代で「日本画滅亡論」に直面するも後に日本を代表する画家となった松尾敏男の《翔》(山種美術館賞受賞作)などをご紹介いたします。明治時代から現代にいたる多彩な作品を通し、新たな日本画の創造に挑んだ精鋭たちの軌跡をご覧ください。

上記の説明に即して、展示の全体はまず「第1章 近代画家たちの挑戦-新たな日本画の創造を目指して-」、次に「第2章 現代画家たちの挑戦-戦後を乗り越え、日本画を未来へつなぐ-」と二つの章を置き、さらに山種美術館が「山種美術館賞」(1971〜1997)と「Seed 山種美術館日本画アワード」(2016〜)を通じて顕彰してきた作品群を【特集陳列】として展示しています。

展示全体の冒頭に置かれたのは、第1回山種美術館賞展で優秀賞を獲得した松尾敏男の《翔》(1970年)で、その内省的な主題と幻想的な表現がもたらす前衛性によって見る者が持つ「日本画」のイメージを拡張しておいてから、まずは第1章でオーソドックスにフェノロサ・岡倉天心が創設した東京美術学校から日本美術院等へ連なる系譜上にある19点の作品が展示されます。これらは西洋絵画への対概念としての日本画を形づくっていく潮流の産物だったわけですが、その過程はそれまでの日本絵画の伝統の枠を越え、様々な時代・様式の西洋絵画にも範を求めながら新しい日本画のかたちを模索するもの。この会場に展示された作品の中には、西洋画から日本画に転じた画家の作品や、西洋画のスタイル(キュビズムまでも!)を取り入れた作品が少なからず見られ、今日「日本画」として括られる絵画ジャンルの源流の豊かさを実感させます。

山種美術館での展覧会ではたびたび展示されてきた土田麦僊《大原女》(1915年)も一見すると長閑な純和風の絵ですが、展示横に置かれた解説を読むとこの作品の制作に画家が「骨身を削る思い」をしながら取り組んだことがわかります。この絵を描いた頃の土田麦僊はルノワールやゴーギャンを手本としていましたが、西洋絵画の研究のために小野竹喬らと共に渡欧(1921年)してルネサンスのフレスコ画の素朴な線の美しさに魅せられ、帰国後に4年の歳月をかけて制作した再びの《大原女》(1927年・京都国立近代美術館蔵)は、西洋と日本の融合により新しい日本画のあり方を示したものとして高く評価されています。

山種美術館の展覧会では少なくとも1点は写真撮影を許されることが通例化していますが、今回は速水御舟《白芙蓉》(1934年)が撮影可とされていました。ふくよかで、それでいて清楚な白い花もさることながら、墨の濃淡で描かれた葉と茎の表現もすばらしく、ことにその茎の線描の見事さを安田靫彦は「二度と引けない、またと引けない天来の線」と絶賛したそうです。速水御舟も、1930年にローマ日本美術展の美術使節として横山大観らと渡欧し、約7ヶ月間にわたり各地を訪問して見聞を広めたそうですから、長生きしていればその経験を生かして画風をさらに発展させていたかもしれませんが、将来を嘱望されながらも1935年に40歳の若さで病没しています。

後掲のフライヤー表面を飾る絵は、当初西洋画家としてスタートし途中から日本画家に転じて名をなした川端龍子の《鳴門》(1929年)。奔放な大作主義(それまでの「床の間芸術」に対し「会場芸術」と呼ばれた)の出発点となったこの作品は、横幅8m以上の巨大な画面に大量の群青を用いて躍動的に描かれた波の表現や、抽象的なフォルムの陸地と前景右寄りに置いた舟の写実との対比がダイナミックですが、制作時点で川端龍子は鳴門の渦を見たことがなく、この絵は画家の想像の産物なのだそう。

この第1章に含まれる絵の中で、最も惹かれたのは西郷孤月《台湾風景》(1912年)でした。近景のすっくと伸びた檳榔樹の林と、中景でこれらと相似形をなしながらきりっと存在感を示す工場の煙突がそれぞれの縦の線で対峙し、これらを遠景の美しい稜線を持つ山々がおおらかに見下ろしている構図がモダンで画家のセンスを感じさせますが、実は西郷孤月は才能を惜しまれながらも破滅型の人生を送ったらしく、38歳で病没しています。この《台湾風景》はその最晩年の作品で、大陸雄飛を夢見て果たせなかった西郷孤月の人生最後の炎のゆらめきのようにも思えます。

第2章では、岩崎英遠《暎》(1977年)が1999年に山種美術館「日本画の巨匠展 2」で見て以来、久しぶりの再会。実は、上掲《台湾風景》もこの次に紹介する高山辰雄《坐す人》(1972年)も同じ展覧会で見ている(つまり《台湾風景》は初見ではなかった)ことを、この日の鑑賞を終えて帰宅してから過去の記録を見て気づきました。

高山辰雄《坐す人》は昨年の「奥田元宋と日展の巨匠」でも見ており、さすがにそのことは覚えていたのですが、この絵に付された高山辰雄の言葉を読むと「日本画滅亡論」の喧しい中で自分はこれまでやってきたことをこれからも貫き通す以外に道はないと覚悟を決めている様子が窺え、新鮮な驚きを覚えました。

この章に配された他の絵画もそれぞれにすばらしく、特に加山又三《波濤》(1979年)の荒々しく飛沫を散らす磯の景色には圧倒されます。その近くにある千住博《ザ・フォールズ》(1995年)もモノトーンの画面から水の音が聞こえてくるような迫真の表現で、これら二つの絵の前ではしばらく足が止まりました。

もっとも、第2章の主題である「現代画家たちの挑戦-戦後を乗り越え、日本画を未来へつなぐ-」を観覧者に理解させようとするなら、まずもって戦後の「日本画滅亡論」がどのようにして提唱され、日本画家たちがいかにこれを克服して「近代の日本画」を「現代の日本画」へと進化させたかをまとまったかたちで解説してもらえていたらなおよかったのに……と若干物足りないものを感じました。1958年生まれの千住博をこの枠内に含めるのも少々首をひねるところがあって、そうしたところは主催者側の意図を言語化してほしいところなのですが、山種美術館は展覧会ごとの図録を作らないので、展示趣旨やその背景の説明がときに薄くなるのが玉に瑕です。ただしこれは自分のこれまでの勉強不足を棚に上げての物言いなので、決して褒められたものではありません。これまで日本画の展覧会にはずいぶん足を運んできていますが、個々の画家の画風を愛好したり花鳥風月のような画題を愛でたりしてはいても、今回の展覧会のように歴史的文脈の中にそれぞれの画業を置いてその位置付けを確認することをしてこなかったことは自分にとって大きな反省点となりました。

ともあれこの展覧会は、第1章で明治期から始まる日本画の創造、第2章で戦後の「日本画滅亡論」の克服という大きな「挑戦」の成果を眺めた後に、今日に通じる日本画家たちの軌跡を「山種美術館賞」と「Seed 山種美術館日本画アワード」という二つのイベントの受賞作により跡づけて終わるのですが、これら【特集陳列】の作品群の様式にとらわれない自由で多彩な表現の数々に接すると、第1章において菱田春草の言葉(1910年)として紹介されていた次の予言が実現しつつあることを実感しました。

現今洋画といはれてある油画も水彩画も又現に吾々が描いている日本画なるものも、共に将来に於ては――勿論近いことではあるまいが、兎に角日本人の頭で構想し、日本人の手で製作したものとして、凡て一様に日本画として見らるゝ時代が確に来ることゝ信じてゐる。で此時代に至らば、今日の洋画とか日本画とかいふ如く、絵そのものが差別的ではなくなって、皆一様に統一されて了ひ只其処に使用さるゝ材料の差異のみが存することゝ思ふ。

  • ▲表面:川端龍子《鳴門》
  • ▲裏面(左上→右下):岡村桂三郎《オオカミ》 / 松尾敏男《翔》 / 菱田春草《雨後》 / 速水御舟《白芙蓉》 / 上村松園《牡丹雪》 / 土田麦僊《大原女》

鑑賞を終えた後、例によって美術館の1階にある「Cafe椿」でこの日展示された作品にちなんだ和菓子と抹茶のセットをいただきました。青山・菊家が作った和菓子の名前と絵画の対比は、次の通りです。

ルーブル 結城素明《巴里風俗のうち「ルーブル美術館」》
しらつゆ 速水御舟《白芙蓉》
雪の中 上村松園《牡丹雪》
波涛 川端龍子《鳴門》
沈む陽 山本丘人《入る日(異郷落日)》

この日は大画面いっぱいに描かれた鳴門の景色を白い淡雪羹とブルーの錦玉羹で大胆に表現しました。荒海を飛翔する鵜がアクセントだという「波涛」をおいしくいただきました。