清経 / 宗論 / 姨捨

2023/10/09

宝生能楽堂(水道橋)で、「鵜澤雅二十七回忌追善能」と題して能「清経」(鵜澤光師)、狂言「宗論」(野村万作師)、そして能「姨捨」(鵜澤久師)。

位の重い老女物のなかでも「姨捨(喜多流では「伯母捨」)」「檜垣」「関寺小町」の三曲は『三老女』と呼ばれて能の全曲中で最も重い秘曲とされており、私も三老女を観るのはこれが初めてです。それは上演機会がさほど多くないこともありますが、それ以上に『三老女』を観るのは自分には時期尚早と避けてきたせいでもあります。しかし能をコンスタントに観るようになって15年がたつのにいつまでも逃げていてもいけないと思い、勇気を奮ってこの日の「姨捨」に臨んだ次第です。

この日はあいにくの雨模様だったため、濡れた傘をビニール袋に入れて座席に持ち込んでの観能となります。このことが最後に思わぬ仇となってしまうのですが、それは後ほど。

ロビーには鵜澤雅師の遺影が飾られ、会場で配布されたプログラムの冒頭に置かれた鵜澤久師の「ご挨拶」にも、師の父君である雅師が74歳で「姨捨」を披いたときの覚悟を思い出しながら、一生に一回の機会となるであろうこの曲の披きを勤める所存であるとの久師自身の覚悟が記されていました。

幕開きは 女性能楽師二人による「海士」連吟から。背筋が伸びる思いでこれを聴いてから、鵜澤光師による「清経」です。

清経

鵜澤光師による「清経」は小書《恋之音取》付き。まず静寂の内に登場するツレ/清経の妻(谷本健吾師)は傘松尽しとおぼしき紅入唐織、笠をかぶり明るい茶系の水衣に白大口のワキ/淡津三郎(宝生常三師)の〈次第〉は一ノ松からいつもの美声にて。5日前の大山火祭薪能のときには省略されていたワキの道行や夫の入水を知らされたツレの嘆きも、この日は心を込めて謡われていました。そしてツレが悲嘆に暮れながら形見の髪をうさにぞ返す、もとの社にと拒み、そのまま涙のうちに眠りについていくさまを地謡が徐々に低くゆっくりと、まさにまどろみゆくように謡う中で、笛の竹市学師が前に出て揚幕の方を向き、《恋之音取》による特殊なシテの出となりました。まずは半幕になり、その後いったん幕が下りてから再び引き上げられて現れたシテの姿は上掲のフライヤーに描かれた通りの負修羅出立。そして幕の前に止まり、二ノ松へ進み、見所を見やり、左袖を水平に掲げ、袖を下ろして一ノ松へ進み、舞台に入り、そして常座へ進む。これら一連の所作がすばらしく美しく十分の間をとった笛の演奏に合わせて進行し、あたかも笛の音に吸い寄せられるよう。シテと笛方とが息を合わせて、現在能から夢幻能への転換を見事に演出して見せました。

その後の展開はいつもの如く、詞章の省略を伴いながらもシテはツレに恨みの言葉を述べ、平家没落の神託と自らの入水を振り返ります。この間保元の春で一ノ松、松見ればで二ノ松と橋掛リを大きく使い、横笛に見立てた扇を横に構える姿も印象的。入水の場面では目付から左へ身を捩りながら回り常座で力なく安座したものの、そこからツレとの対話なくただちに修羅道の描写となって一気呵成。最後は橋掛リを走り、幕の前で小さく回って仏果を得しこそありがたけれと手を合わせ、そのまま終曲まで囃子方の演奏に耳を傾け続けました。

鵜澤光師のシテは、笛の音に導かれる印象的な登場、しみじみとしたツレとの(しかし心を通わせられずつらい)対話、写実的な入水の再現、そして最後の修羅の場面とスムーズにギアチェンジを重ね、わずかに抜刀に手間取ったように見えたもののそこを除けば淀みない型の連続に見惚れました。ただシテの謡はいつにも増して激情を露にしているように思いましたが、気のせいだったでしょうか。また、この日の公演に先立って10月1日に実施された事前講座の中で、《恋之音取》によりツレの詞章が省略されるためにシテの思いがツレに届いているかどうかがわからず演じにくさを感じているという鵜澤光師の言葉が講師(石井倫子先生)の口を通じて紹介されていましたが、その点をこの日の舞台上では克服できたのかどうか、さらには常座で留めずに幕前まで移動して終曲を迎えた演出意図も知りたいものです。

ところで事前講座で学んだところによれば、謡曲「清経」の原典は『平家物語』ではあるものの語り本系(覚一本)でも読み本系(延慶本)でも平清経への言及はごくわずか。むしろ『源平盛衰記』に詳しい記述があり、これによれば清経は妻も西国落ちに伴うつもりだったのに妻の両親の反対でかなわず、そこで西国へ向かう道中で髪を切って形見としつつ「常に手紙を送ろう」と言ったのに三年間便りを寄越さなかったことから妻は清経が心変わりをしたのだと思い「見るからに」の歌を添えて形見の髪を清経のもとへ送り返したとあるそうです。自分や平家が置かれた絶望的な状況に心を痛めていた上に妻から形見を返されたことが清経の入水に結びついた可能性があるとすれば、この曲の中で生前の返却に加えて淡津三郎が持参した形見までも返却された(下掛の詞章には再び送る黒髪とある)ことに清経が恨みを持つことは理解でき、したがって約束を破り自ら命を断った夫を恨む妻との間のすれ違いのドラマが成り立ちうるというのが講師の解説でしたが、ちょっと穿った読み方をすると、シテの姿はツレが笛の音の力で夢の中に呼び出したものなので、自分が入水の原因を作ってしまった(と悟った)ツレはシテを成仏させることで自らも救われた、とは考えられないでしょうか。というより、そう考えないとツレの方が浮かばれないような気がするのですが。

宗論

旅の途中で道連れになった浄土僧と法華僧との論争と結末での和解を描く狂言「宗論」はこれまで二回観ており、最初は野村万蔵師の浄土僧と野村小三郎(現・又三郎)師の法華僧、二回目は野村萬斎師の浄土僧と高澤祐介師の法華僧という組合せでした。そして今回は野村万作師がシテ/浄土僧、野村裕基師がアド/法華僧という祖父・孫の組合せで、これは初めて裕基師を舞台上で観た2010年の「舟ふな」を思い出させます。このときは主・万作師を利発にやり込める太郎冠者を演じた当時10歳の裕基くんの天才少年ぶりに驚嘆したものですが、その裕基くんも今や成人になって、三間四方の能舞台のサイズには収まりきらぬほどの長身と八頭身のスタイルで祖父と対峙していました。しかし「宗論」の中では浄土僧が法華僧を攻め立てる流れになっており、にやにやといたずら心満載の万作師がいささか直情型らしき裕基師にちょっかいを出して困らせることの繰り返し。それでも最後は踊念仏と踊題目の互角の対決となって、謡い踊りながら舞台手前から奥へ進んだ二人がこちらに向きを変えたときに浄土僧が「蓮華経」、法華僧が「なまうだ」と取り違えたところでお互いにしまったと口を押さえましたが、ここまでの踊りが大変な運動量で、若い裕基師は平然としているのに対し万作師は荒い息。以下、大団円の連れ舞と謡は裕基師がリードして万作師を庇っているようにすら見えて、一種微笑しくもある舞台でした。

「宗論」に続いて仕舞二番は観世銕之丞師の「井筒」と片山九郎右衛門師の「融」、さらに舞囃子が観世清和師の「砧」という超豪華布陣です。筒井筒の歌をしみじみと謡った観世銕之丞師が正先から「見れば懐かしや」と見下ろす姿にしみじみとなり、ついで片山九郎右衛門師の武道家を思わせるほど芯が通った体の裁きに圧倒された後に、何かトラブルでも?と思うほどの間があってから舞台上に演者が揃って「砧」になりましたが、やはり宗家が舞われると舞台上の緊張感がひしひしと伝わってくるようでした。

ここで休憩20分間となりましたが、「砧」が終わった時点で既に16時。この日の終演予定は18時だと事前に伝えられていたものの、16時20分から「姨捨」が始まって約2時間かかるとすると予定時刻をかなり回ることになるな……とこのときはその程度に思っていたのですが、それでは済みませんでした。

姨捨

冒頭に記した通り『三老女』のひとつとして大事に扱われている曲。事前講座での解説では世阿弥作ではなく金春禅竹作であろうとされており[1]、信州更科山の姨捨説話を下敷きにしつつもその陰惨さは曲の中では希薄で、むしろ月の名所としての姨捨山の清らかなイメージが表に出てくる曲です。

冒頭の笛がそのしみじみとした美しさで早くも舞台上に信州更科の秋の情景を現出し、大小が入っての〔次第〕の囃子を聞きながら登場した素袍裃のワキ/都人(宝生欣哉師)たちは陸奥国信夫の者で、長年都に滞在し四季折節の風情を見尽くした後に北陸道から善光寺を経て噂に聞く姨捨山で月を眺めるつもりだと名乗ります。〈着キゼリフ〉の後、笠を後見座に置いたワキは正中で姨捨山の頂の様子を「空が近く月もさぞかし美しいだろう」と賛嘆してから脇座へ向かいましたが、その背に向かっていつの間にか上がっていた揚幕のさらに奥から、どこまでも深い声色の呼び声が掛かりました。これを不思議に思うワキの問掛けに応じるように橋掛リへ姿を現した前シテ/里女(鵜澤久師)の出立は秋の草花の文様が美しい紅無唐織着流、三ノ松から二ノ松へと立ち位置を変えてわが心慰めかねつ更科や 姨捨山に照る月を見てというこの曲のモチーフに通じる歌[2]を詠じ、その歌の主の跡はあの桂の木[3]の陰であると脇正面席あたりを見やるとワキも桂の木に目を向けて、以下シテとワキの掛合いの内に亡き人の執心が残るこの地の寂しさが描かれ、じっくりと謡われる地謡がこれを補強します。

ワキが都から来たことを知ったシテが月の出る頃に現れて夜遊を慰めようと語ったその言葉をとらえてワキがシテの正体を尋ねると、シテは自らをこの山に捨てられた姨であり、中秋の名月の夜が来るたびに執心の闇を晴らさんと現れるのであると明かして姿を消してしまいます。このとき、地謡がそれといはんも恥ずかしやと謡ったところでワキが脇座に着座すると舞台上に一人立つシテの孤独が際立ち、今宵あらはれ出でたりとワキへ一歩出てから常座へ下がってかき消すように失せにけりと気配を消すと、シテは蕭条とした送リ笛に送られて中入となりました。

アイ語リは野村萬斎師。ワキの求めに応じてアイ/里人が語った内容は、姨捨説話に基づく姨捨山の名の由来(わが心の歌は詠われない)、そしてこの地が月の名所として歌人に知られた所以。15分以上に及ぶ情感のこもった語りの後に、ワキから先ほどの顛末を聞かされたアイは、それはいにしえの老女が都からはるばる訪ねてきた主従を嬉しく思い現れたのであろうからここで一夜を過ごすようにと勧めて下がりました。

ワキ・ワキツレが月の出を愛で、その最後にワキが独吟で三五夜中の新月の色、二千里の外の故人の心と美しく謡うと、細く優しいヒシギが入って〔一声〕の囃子。大小がゆったりとした空気を作る中に笛の調べが重なり、やがて静かに揚幕が上がると鏡ノ間の奥から漏れる白い光が月光のよう。その中に姿を現した後シテ/老女はごく淡い色合いの地の上にかすかに濃い色で薄すすきをあしらった長絹と白大口を着用し、常座まで進んだその姿を正面から見ると確かに老女の面(姥)や鬢なのに少女の顔立ちのようにも見えました。あら面白の折からやな以下、姨捨山の澄み渡る空の美しさがシテによって謡われるとその情景が眼に浮かぶよう、そしてシテとワキとの対話は掛合いとなって互いの情感が高まり、遂にさもいろいろの夜遊の人に、いつ馴れ初めて現なやと同吟になりました。このシテとワキとの同吟は事前講座でも話題となり、講師は「風雅の友として琴線が触れ合い、掛合いの末に思わず同吟してしまったということだろう」と説明していましたが、聞く限りではワキの方にシテの謡を待つ気配が感じられました。

ともあれ曇らせた面を左袖で隠す所作で月に見ゆるもはづかしやと恥じらい[4]を示したシテは、大小前に移って〈クリ・サシ・クセ〉の中で故事を引き、阿弥陀如来とその脇侍である勢至菩薩(月の本地仏)の光明を讃えて舞い続けましたが、地謡によるその詞章の一言一言から光のイメージが溢れ出てきて、照明が変わったわけでもないのに舞台上が照らされているかのような錯覚を覚えました。しかし〈クセ〉の終わりは月の満ち欠けが世の有為転変を示すという無常観。

かくしてシテの心は過去を振り返り昔恋しき夜遊の袖と謡って、太鼓入りの〔序ノ舞〕となります[5]。しばらく常座に立ち尽くして囃子を聞いていたシテは、やがて静かに位置を変えて舞い始め、正面・脇柱・目付と三方向に向かって扇を手に身を沈める印象的な型を見せ、扇を左手に持ち替えて目付から舞台下をじっと見下ろし、そして舞台上に着座すると右袖を前にじっと左手の扇を見つめます。月光の中に透き通るようなその姿を息を飲んで見守っていると、シテはゆっくりと面を右上へ向け月を眺める形になってその姿を保っていましたが、長い静止の後に徐々に面を曇らせていく儚げな様子が時の移ろいを示すよう。今まで様々な曲の様々な〔序ノ舞〕を見てきましたが、これほど写実的でありながら様式的でもあり静かで美しいシテの姿を見たことはないと断言できるほど、この場面には心を奪われました。

やがて立ち上がったシテはひとしきり舞い続けた後にわが心、慰めかねつ、更科やと〈ワカ〉を謡い、その下の句を地謡に詠わせてからこの歌の心に沿った掛合いの謡に合わせて舞い続け、左袖を返して返せや返せ昔の秋をとこの世に生きていた昔への懐旧の執心を明かしたものの、夜が明けてくる様子にシテが空を見上げると夜遊の友となってくれていたワキやワキツレは黙ってシテの前を通り過ぎていきました。大小によるアシライの中、橋掛リを下がる三人を正中で寂しげに見送っていたシテは一二歩そちらに行きかける気配を示したものの立ち止まり、ワキたちが揚幕の向こうに消えたところで正面に向き直って独り捨てられて老女がと謡うと、「昔と同じく今もまた、姨捨山となったのだった」と深々と音程を下げて謡う地謡を聞きつつ下居。シオリを伴わず、ただ中啓を立てて自分の定めを受け入れる気高さを示すその姿を正面に向けたシテは、謡が終わった後にもしみじみと奏され続ける囃子を背に立ち、常座から揚幕の彼方を見やる姿で余韻深く一曲を終えました(残り留)。

冒頭に「勇気を奮って」と書きましたが、ここまで何年もかけて自分の中にこの曲を観るに足る素地を作ろうとしてきた甲斐あってか、シテの一挙手一投足に意味を見出しながら、鵜澤久師が作り上げる「姨捨」の世界に没入することができました。ことに〔序ノ舞〕の場面で記したように、この日の舞台は自分にとっても唯一無二の体験であったと言うことができます。それほど素晴らしい舞台であっただけに、この日の見所の振舞いの数々には落胆しました。〔序ノ舞〕の途中で鳴動するスマホ(バイブモードだったのが不幸中の幸い)、終曲を待たずに席を立つ客多数、シテが静々と橋掛リを下がってゆく途中で湧き起こる拍手と帰り支度の騒音(ことに傘袋のビニール音)。特に大勢の観客があのタイミングで拍手したことには驚きを通り越して憤りすら覚えましたが、これはこの日の客席のかなりの割合が「姨捨」を観るにふさわしい能楽鑑賞経験を持っていなかったことを示しています。ただし公平を期するためにあえて書くと、あらかじめ伝えられていた終了予定は18時だったのに「姥捨」に入る前でも前述の通りかなり押しており、さらに「姨捨」自体が2時間半かかって終演は19時近く。そこは主催者側の見込み違いと言われても仕方なく、予定が狂った人が焦ったのも無理からぬことではあります。しかしたとえそうであったとしても、師がこの秘曲に臨む覚悟と同じ覚悟を持って立ち会えないのなら、この日の見所にいる資格はないはずです。

もっともこれは見所の喧騒の内側にあった自分の立ち位置からの物言いであって、舞台上の鵜澤久師を始めとする演者たちはそうしたノイズに動じることなく、師にとって一期一会となるであろうこの日の舞台を最後まで見事に勤めきっていたことだろうと思います。そしてこの舞台の一員として地謡の前列右端で鵜澤久師を見つめ続けていた鵜澤光師は、母の「姨捨」をどういう思いで見、自分がやがて「姨捨」を演じることになる日(今から30年後?)をどのように思い描いたのかをお聞きしてみたいものです。

配役

連吟 海士キリ 原田樹子
後田洋子
清経恋之音取 シテ/平清経 鵜澤光
ツレ/清経の妻 谷本健吾
ワキ/淡津三郎 宝生常三
竹市学
小鼓 観世新九郎
大鼓 亀井広忠
主後見 観世清和
地頭 片山九郎右衛門
狂言 宗論 シテ/浄土僧 野村万作
アド/法華僧 野村裕基
アド/宿屋 石田幸雄
仕舞 井筒 観世銕之丞
片山九郎右衛門
  地頭 西村高夫
舞囃子   観世清和
一噌庸二
小鼓 大倉源次郎
大鼓 柿原弘和
地頭 岡久広
姨捨 前シテ/里女 鵜澤久
後シテ/老女
ワキ/都人 宝生欣哉
ワキツレ/同行者 大日方寛
ワキツレ/同行者 御厨誠吾
アイ/里人 野村萬斎
松田弘之
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 亀井広忠(亀井忠雄代演)
太鼓 小寺真佐人
主後見 観世銕之丞
地頭 浅井文義

あらすじ

清経

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宗論

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姨捨

長らく都にいて名所旧跡を訪ね歩いた陸奥の信夫の某は、初めて信州へ旅立つ。折しも中秋の名月。古歌に詠まれた更科の月を見ようと姨捨山にのぼる。そこに現れた里の女は某の求めに応じて姨捨山の歌を詠んだ老女の亡き跡はこの桂の木の木陰だと教え、そして自分はまた月と共に現れて旅人を慰める夜遊の舞を舞おうと言って姿を消す。夜半、澄み渡った空にのぼる清らかな月の下、白衣をまとった老女が現れ、月の仏である大勢至菩薩のこと、極楽浄土の有様を讃え昔を偲びつつ舞う。やがて夜が明け、旅人達は老女を一人残し去って行く。

脚注

  1. ^事前講座で講師が「姨捨」を金春善竹作とした理由は次の通り。
    • 『申楽談儀』における「姨捨の能」への言及からは、世阿弥が他人の作品に対して助言しているニュアンスが感じられる。
    • アイに語らせた本説の「姨捨説話」を後場で繰り返していないのは世阿弥の作風と合わない。
    • 姨捨山に取り残されたシテは来年の中秋の名月にも同じように出てくるはず。こうした輪廻の構造は金春禅竹の作品(たとえば「野宮」)に見られる特徴。
    • 後シテの謡が中音から始まるのも金春禅竹の作品に多く見られる点(たとえば「玉鬘」「定家」「芭蕉」)。「あれ、何なんでしょう。謡いにくいんですよ!」(by 鵜澤久師)
  2. ^『古今和歌集』に読み人知らずとして収録されているこの歌は、『大和物語』の姨捨説話では伯母を捨てた男が姨捨山から出る月を眺めて詠んだことになっているが、『俊頼髄脳』では捨てられた伯母が姨捨山の頂で月を眺めながら詠んだことになっており、能「姨捨」は前者を採っている。
  3. ^月と桂との結びつきについては「三山」も参照。
  4. ^『申楽談儀』で言及されている場面。ワキに見られるのが恥ずかしいというだけでなく、月に見られるのが恥ずかしいという意味を含む。
  5. ^老女物のなかで太鼓の入る〔序ノ舞〕を舞うのは本曲のみである。姨捨伝説を基にしていることは確かだが、太鼓が入るところからも明らかなように、その悲劇に焦点を当てるというよりは、むしろ老女の月の光のもとでの遊興に中心がある。それは、月光と同化していった老女による表される明るく清らかな世界である(小学館・日本古典文学全集『謡曲集(1)』)