第42回大山火祭薪能

2023/10/04

大山阿夫利神社で大山火祭薪能を拝見。今年は第42回だそうですが、私にとっては初めての参列です。

この観能はFacebookの丹沢関連のグループでご一緒している相模太郎さんからお誘いをいただいて実現したもので、チケットは大山阿夫利神社下社の茶屋「さくらや」に配布された三枚の内の一枚を分けていただいたもの。雨にもかかわらずご一緒いただいたタニレイコさん・相模太郎さん、貴重なチケットをお譲りいただいた「さくらや」さん、ありがとうございました。

そもそも大山火祭薪能とはなんぞや。伊勢原市日本遺産協議会のサイトによれば徳川幕府の庇護を受けていた大山には多くの神職、僧侶、山伏が暮らしていました。しかし互いに争い事が絶えず、多くの訴訟が行なわれていたといわれています。そうした実情を憂いた幕府は、紀州の観世流能楽師「貴志又七郎」を大山に召喚し、三者に能楽を習わせ年に二度の演能を命じました。すると互いに技術を磨き、共に上演を重ねていく中で、次第に争いは起こらなくなり、いつしか平穏な山になっていたと伝えられています。これが大山能狂言のはじまりですとあります。大山修験が徳川幕府の弾圧を受けたことは歴史的事実(そのことは同サイト内でも言及されています)なのでこの説明には微妙に不思議の感を覚えますが、それはさておき近代に入って衰微しかけていた大山能狂言も昭和の終わり近くになって再興の機運が生じ、観世清和師と山本東次郎師の協力を得て1981年に開催されたのが大山火祭薪能の起こりだそうです。

舞台は阿夫利神社社務局境内の能楽殿「清岳殿」。普通の能舞台なら鏡板に松が描かれるところですが、この舞台では舞台背面が素通しになっていてそこに植栽されている松が見通せるようになっています。音響効果的には不利な作りですが、元来能舞台は四方吹き抜けだったそうですから、これは驚くには値しません。しかも舞台の床にはバウンダリーマイクが設置され、PAを通して音声が客席に届くようになっていました。

この日はあいにくの天気で、前夜から降り続いた雨が開催時刻になっても残っており、やんだかと思えばまた降り出すという状態でした。しかし客席で傘をさすことはもちろん御法度。したがって雨合羽を着込んでの鑑賞となりましたが、さすがに10月ともなれば夜は気温がぐっと下り、合羽を着ていても寒さを感じるほど。この状態で3時間にわたる式を耐えなければならないので、客席には一種の悲壮感すら漂っていました。

さて、二日間にわたるこの催しの初日のメインは山本東次郎師「惣八」と観世清和師「葵上」でしたが、二日目のこの日は一つ若い世代の組合せで山本則重師「附子」と観世三郎太師「清経」です。しかしそこに辿り着く前に式次第に沿って各種神事を見守らなければならず、トータル3時間の雨中観覧はなかなか厳しいものがありました。ときに降りしきる雨の中で早々に戦線離脱する観客も少なくありませんでしたが、しかしそれでも大勢の観客が最後まで席を立たずに舞台を見守り続け、我々もその一部となりました。

舞台はまず大山能楽社保存会の皆さんによる狂言と仕舞から始まります。狂言は「左近三郎さこのさむろう」で、むさい猟師でありながら立板に水の問答もこなすシテを保存会の方が勤め、アドの僧は山本則重師。保存会の方は堂々の役者ぶりでした。仕舞の方は松木千俊師ほかによる地謡の前に子供たちが次々に現れて謡い舞うもので、演目は「道灌」「玄象」「鶴亀」「岩船」「竹生島」。まだ就学年齢に達していないと思われる女の子から始まって徐々に年齢が上がっていき、それぞれに応援したくなる真摯な舞台でしたが、「鶴亀」を舞った紋付袴の娘さんは日舞のようですし「竹生島」を舞った振袖女子はダンスのようで、稽古の場の自由な雰囲気を想像させるものでした。

ついで伊勢原市議会議長さんの簡潔な挨拶があり、次に雨天のため式次第の短縮が行われたらしくただちに火祭神事に入りました。巫女さんが御神火を運び、祝詞が奏上され、弓と鉾を用いて邪気を払う儀式が行われ、その最後に「えーい」の掛け声と共に鏡の間の屋根に向けて矢が放たれましたが、この最後の神事で激しく鳴らされる鈴の音とどんどん高揚していく祝詞を聞きながら低い姿勢で舞台を踏みしめ回る姿には「翁」における三番叟を連想させる呪術的な雰囲気が感じられました。

そして最後は雅楽の調べと共に玉串奉奠、そして篝火への火入れが行われて、演能に先立つ一連の神事が恙無く終了しました。

一人翁

三人の神官、翁、四人の地謡が舞台に進み、まず平伏する翁に対して大麻おおぬさによる修祓が行われてから、舞台の正先に進んだ神官が薪能の開始を告げる僉義を読み上げ、そして翁に向かって「薪御能仕り候え」と呼び掛けると翁が「畏まって候」と応えました。少し前に舞台正面にある階きざはしは奉行が開演に先立ってそこから能楽師に向かい「始めませ」と呼び掛けるためにあるという話を聞いたことがありましたが、これもその類に違いありません。

それはさておき「一人翁」は、その名の通り千歳・三番叟・囃子方を伴わず直面の翁と地謡四人のみによって演じられました(千歳がいないので鳴るは瀧の水……のくだりもありません)。本式の「翁」を最後に観たのは2021年で小書《十二月往来》《父尉延命冠者》付きというゴージャスなものでしたが、この日のいわば略式の「翁」であっても舞台上からは凝縮された荘重さが伝わって、とうとうたらりたらりらの呪文には心を奪われ、天下泰平、国土安穏、今日の御祈禱なりという祈りの言葉にはいつものように胸が熱くなりました。

道灌 / 網之段

「道灌」とは聞いたことがない曲名だと思っていましたが、これは伊勢原市市制30周年を記念して2003年に山本東次郎師作・観世清和師監修&節付の新作能だそう。あらすじを見ると複式夢幻能の形をとりつつ時制的にはほとんど現在能(前シテは武将の姿で現れてすぐに太田持資と名乗り、しかもその登場は道灌が暗殺されたその日の夜)と言えそうな不思議な作りですが、この日は仕舞としてキリ[1]の部分が演じられました。

続いて「網之段」は子別れ狂女物のひとつ「桜川」から、〈クセ〉に続いて桜の花が風に吹き散らされる中に母が我が子を思って感情を昂らせる(狂う)場面。桜子ぞ恋しき、わが桜子ぞ恋しきという絶唱が涙を誘います。同様の狂女物では「隅田川(角田川)」は何度も観ていますし「三井寺」「百万」も観ていますが、不思議と「桜川」は未見なので、上演される機会があれば観てみたいものです。

附子

附子とはトリカブトのこと。附子という猛毒が入っている桶には近づくなと言い置いて主は外出したが、桶の中身は実は美味な黒砂糖。これを食べ尽くしてしまった太郎冠者と次郎冠者は一計を案じ、主の大切な品々をわざと壊した上で帰ってきた主に「壊してしまったことの申し訳に附子を食べて死のうとしたが死ねなかった」と報告するという抱腹絶倒の狂言で、2016年に山本則俊師の太郎冠者、山本東次郎師の次郎冠者で観ています。

この日は山本則重師が太郎冠者、山本則秀師が次郎冠者で、太郎冠者の無茶と次郎冠者の慎重という性格の違いをしっかり見せながらもシンクロするところでは息がぴったり。雨音に負けじといつも以上に熱の入った舞台でしたが、単なるドタバタ喜劇ではなく、強く禁じられるほどその禁制を破りたくなる人間の性さがや、普段太郎冠者たちを抑圧している主(そうでなければ太郎冠者とてここまでひどいことはしないはず)がぎゃふんと言わされることに喝采を送っただろういにしえの観客たちの存在を想像させるところがこの狂言の面白みです。それに「附子」がいつ頃成立した狂言かわかりませんが、もし能楽成立初期(室町時代前期)であったなら観客は一般大衆ではなく政権中枢に近い人々だったはず。彼らにとってもこの狂言が身につまされるものであったとしたなら、これもまた面白いことです。なお、この手の公演において狂言の演目は能となんらかの関連があるものが選ばれるのが常ですが、もしこの日の選曲において意識された共通項が「自害」だったとしたら、ちょっと見方が変わるかもしれません。

この「附子」が終わったら最後の演目である能「清経」となりますが、その前に神官が三方に載せた新酒を演者に贈る儀式が橋掛リの上で行われました。場内アナウンスでは「新酒なまわりの儀」と聞こえたのですが、雨音のためによく聞こえなかったこともあり「なまわり」の正体は謎です。

清経

修羅物の一場型夢幻能で『平家物語』巻第八の中に描かれる平清経入水の話に題材をとった世阿弥作「清経」もこれまでに三度(2008年2018年2023年)観ていますが、このうち二回は小書《恋之音取》を伴うもので、この小書のために登場楽でのツレの慕情が深まる一方、ツレの繰り言の台詞のいくつかが省略されることから結末での「妻の置いてけぼり感」が気になったものです。この日の小書は《替之型》で、その詳細は不明ですが、調べたところでは「清経が大義を述べる部分を少なくして抒情性を高めることもある」「〈クセ〉の一部を橋掛リで舞い、陰影を強く見せる」という演出だそう。実際の舞台でこの小書がどのように現れるのかという点は、この日の観能における着目点のひとつでした。

ところで普通の能楽堂では地謡は切戸口から舞台に入りますが、この能舞台は上記の通り背面が素通しになっており、開演前に開いていた貴人口を遠目に覗いたところそこには神棚が祀られている様子。どうするんだろうと思っていたら、地謡陣も囃子方と共に揚幕から橋掛リを渡って舞台に入ってきました。なるほど。そして地謡と囃子方が着座した後に、静寂の中にツレ/清経の妻(井上裕之真師)が登場して脇座に着座。その出立は総模様の紅入唐織着流で、面はおそらく小面です。

〔次第〕の囃子に火がはぜる音、虫の音、雨音も重なった重層的な登場楽と共に登場したワキ/淡津三郎(殿田謙吉師)は掛素袍・白大口に笠を着けた旅装。舞台に進んでの〈次第〉に続き笠をとってからの〈名ノリ〉、そして道行なくただちに〈着キゼリフ〉となり、ワキはツレを訪います。ここから始まるツレとワキとの問答で、常の演出では清経が柳が浦の沖で入水したと聞かされたツレは「なに入水した?討たれたというなら諦めもつくのに身を投げるとは恨めしいことだ」と恨み節全開になり、そのツレの泣く様子を地謡が描写して悲劇性を高めるのですが、この日はこれらも省略されてワキが清経の形見を持ってきたというくだりにジャンプします。こうした省略がこの日の小書に伴うものか、野外能ではままある省略なのかはわかりませんが、ツレがげに恨みてもそのかひの、亡き世となるぞ悲しけれと泣く様子が描かれないと、悲嘆の深さも形見を返した心も伝わらなくなってしまいそうな気がします。

ともあれワキがツレに形見の黒髪を渡し、ツレが見るたびに心づくしの髪なれば 憂さにぞ返すもとの社にと歌って形見の受け取りを拒んだところで地謡が入り、その夜、ツレが夢の中に夫・清経との再会を願ううちにワキは囃子方の後方へ下り、そして負修羅出立のシテ/平清経の霊(観世三郎太師)がするすると登場しました。右肩を脱いだ長絹の地は紫ですが、半切は白地に紅葉を散らし、厚板も遠目には白さがまさって華やかな中にも清澄な色合い、面はおそらく中将。そしてシテによるうたたねに恋しき人を見てしより 夢てふものは頼み初めてきの朗詠とツレへの呼掛けいかに古人、清経こそ参りて候へは一ノ松からなされ、これはツレの夢の中でシテの存在がまだ実体を伴わず遠いものであることを示しているようです。

シテの姿を見て一瞬喜んだもののすぐに恨みの言葉を夫にぶつける妻と、そんなことを言うのなら形見を受け取ってもらえなかった自分の方にも恨みはあると常座に進んで言い分を返す夫。本当は恋しい夫の姿を夢に見てうれしいはずなのに恨みの心が邪魔をして思いを通わせられずに泣く妻が不憫ですし、夫の方も舞台中央に立って左袖を巻いてシオリを見せていましたが、そんな夫婦喧嘩を背にしてワキは橋掛リを下がってしまいました。もっともこのあたりまでは常の演出と変わるところはありませんが、シテが気分を変えて古の事ども語つて聞かせ申すべし、今は恨みを御晴れ候へとツレに呼び掛けてから大小前で床几に掛かって語る場面でさても九州山鹿の城へも以下がばっさり省略されてそもそも宇佐八幡に参籠しへ飛ぶのは《恋之音取》の場合と同じ。ここで宇佐八幡から世の中の憂さには神もなきものを 何祈るらん心づくしにというショッキングなお告げを得たシテが床几を立ち大小前に力なく下がって崩れるように着座する様子は、清経が……というより三郎太師が一人で平家一門の愁嘆を代弁してみせてその器の大きさを感じさせました。

〈クセ〉は舞グセ。前半の途中の保元の春の桜、寿永の秋の紅葉(保元年間には栄華を誇った平家が寿永年間には没落する意)あたりでシテは一ノ松に出て足拍子を繰り返し、さらに白鷺の群れる松を源氏の旗かと恐れる場面では二ノ松まで進んで遠く舞台と反対方向を見やる型を示します。その後シテは舞台に戻り、上ゲ端あぢきなや、とても消ゆべき露の身をは常座にて。そして〈クセ〉の後半、入水前に清経が横笛を吹く場面で地謡がテンポを落とし腰より横笛抜き出だし、音も澄みやかに吹き鳴らしと謡うとそこに杉信太朗師による印象的な笛の調べが重なります。しかし入水のときが近づくと舞台上の空気は一転し、死を前にしてのシテの高揚、西に傾く月への祈りが写実的な型の連続で示された後に、舟から海へと飛び込む様子をがっくりと安座する姿で見せて一気に空気を鎮静化させました。

詞章には〈クセ〉の後にツレの嘆きとこれを嗜めるシテの言葉があるのですが、ここもまた省略されてただちにキリの描写に移り、修羅道に落ちたシテが太刀をふるって奮戦するさまをダイナミックな型の連続で示し始めると途端に雨が強く降り出しました。しかし死に際しての十念のおかげで実は清経は成仏できていたのであった、という例によって梯子を外されるような急転直下の終曲となり、シテは常座で合掌すると左袖を返して留拍子を踏みました。

このところ「清経」と言えば《恋之音取》のためにシテの登場だけで15分かかっていたので、この日のように気付いたらシテはもうそこまで来ていたというのは逆に新鮮でした。一方ツレの詞章の省略はこの日の演出でも顕著で、この若い夫婦の人間ドラマの部分が希薄になって平家滅亡の潮流から逃れられず死を選んだ清経の「定め」に主眼が移ったことになるわけですが、これまでも思ってきたようにそれではツレの立場がありません。死に際して十念を唱えたことで成仏できたシテはいいとして、ツレの方はこの夢が覚めたその日からどういう気持ちで生きていけばいいのか。ただ、この日のシテの舞を観ていると、自分の死への道程を語る〈クセ〉にしろ修羅の闘争を描く〈キリ〉にしろ、その舞の端々にシテがツレの存在を意識し、謡い語って聞かせているという思いを見てとることができたような気もします。

ともあれこの日の舞台にもう一度目を向けると、何といってもシテの観世三郎太師が素晴らしい公達ぶりでした。三郎太師の舞台は子方のときから観ていますが、この日の舞台で示した謡の見事さ、きびきびとしてしかもダイナミックな所作の数々、平家の公達にふさわしいノーブルさを見れば、能楽師としての研鑽を着実に積んでいることが一目瞭然です。また、ツレの井上裕之真師も詞章の省略を受けながらもよく通る声でシテとの対話劇の部分を成り立たせており、後で調べたらかつてその舞台を観て美声に惚れた井上裕久師の御子息だと知って納得しました。狂言の山本則重・則秀兄弟も含めて第二・第三世代の活躍をまとめて観ることができたという点でも、この日の観能は価値があったと言えそうです。

……とは言うもののつらい3時間でした。時間の経過と共に気温は下り、雨は断続的に降り、能についてよく言われる「拷問芸能」という言葉はこの日の観客のためにあるのではないかと思えるくらい。大山の別称である雨降山にふさわしいという見方もできなくはないですが、野外での観能中の雨はあまり歓迎したくありません。ともあれ最後の「清経」の演者が橋掛リを下がっていき、地謡が附祝言を謡い終えてこれも揚幕の中に消えたらただちに雨宿りできる場所に移動して着ていた合羽をしまい、気兼ねなく傘をさして伊勢原駅北口行きのバスの停留所を目指しました。

配役

一人翁 山階弥右衛門
仕舞 道灌 角幸二郎
網之段 浅見重好
狂言 附子 シテ/太郎冠者 山本則重
アド/主 山本凛太郎
アド/次郎冠者 山本則秀
清経
替之型
シテ/平清経の霊 観世三郎太
ツレ/清経の妻 井上裕之真
ワキ/淡津三郎 殿田謙吉
杉信太朗
小鼓 観世新九郎
大鼓 亀井広忠
主後見 上田公威
地頭 浅見重好

あらすじ

附子

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清経

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脚注

  1. ^我を慕いし国民くにたみの手厚き供養身に受けて、相模野末の糟谷の里の、土となるとも常永久とことわに、見守り給う阿夫利の御山、見守り給う阿夫利の御山の、深き恵みぞ有り難き、深き恵みぞ有り難き