佐渡狐 / 関寺小町
2025/12/14
国立能楽堂(千駄ヶ谷)で金春円満井会特別公演。フライヤーに「能楽金春流最奥、一子相伝の秘曲上演」とある通り、前宗家・金春安明師による「関寺小町」の上演です。
周知のように「姨捨 / 伯母捨」「檜垣」「関寺小町」の三曲は『三老女』としてとりわけ大切に扱われており、このうち「姨捨」は観世流・鵜澤久師のシテで2023年に拝見しています。「檜垣」も金剛永謹師のシテで同じく2023年に観ているのですが、金剛流はこの曲を『三老女』に含めないので、この日の「関寺小町」は『三老女』としては二曲目の鑑賞ということになります。

この日の番組は、まず仕舞が六番、狂言「佐渡狐」、ついで仕舞五番、一調、そして仕舞二番ときてやっと休憩が入り、その上で能「関寺小町」(予定上演時間110分)という長丁場。以下、まず狂言の前までの仕舞についての一言コメントです。
- 難波:金春憲和宗家。もちろん囃子方は入っていないけれども、管弦が奏される中で舞う風情が厳かに漂います。ところで憲和師とは6年前(=コロナ前)に「渋谷能」のアフターパーティーで会話を交わさせていただいたことがあるのですが、そのときから比べると幾分ふくよかになられたような……。
- 葛城:柏崎真由子師。端正で伸びやか。この「葛城」と次の「放下僧」は地謡四人も女性です。
- 放下僧コウタ:村岡聖美師。最初の発声でぐっと惹きつけられました。すごい。
- 岩船:中村昌弘師。めでたい曲ですが、引き締まった表情できびきびと舞う中村師の謡は、いつにも増して力のこもったものでした。
- 蝉丸:井上貴覚師。一転して、悲嘆のうちに都を離れる逆髪の姿をしっとりと。
- 舎利:本田芳樹師・本田布由樹師。芳樹師が仏舎利を奪って逃げる足疾鬼で、これを追い詰める韋駄天が布由樹師ですが、これまで地謡でしか拝見したことがなかった布由樹師の身体能力に目を見張りました。すみません。
佐渡狐
「佐渡狐」は私が初めて観た狂言(2005年)で、そのときのシテ(越後の百姓)は善竹十郎師。次に観たのはずいぶん間が空いて2021年で、シテ(奏者)は野村万作師です。今日は大藏彌太郎師がシテ(越後の百姓)で、大蔵流・和泉流共に話の筋は変わらないのでここでこまごまと記すことはしませんが、とにかくわかりやすく楽しい狂言です。ただ、確かに二人の百姓と奏者がそれぞれに示すおかしみ(たとえばシテが差し出した賄賂を奏者が「ならんならん」と口では突っぱねておきながら周囲を窺い、袖に入れて笑みと共に「重ねては、ならんぞ」(=今回だけだぞ)とささやくなど)は作者の人間観察と演者の芸が相俟って最高に面白いのですが、今回観ていて「そうか」と思ったのはそこではなく、二人の百姓がそれぞれ登場の際に今年も年貢を納められることを喜んでいて、とりわけ佐渡の百姓が「これも天下治まりめでたい御代だからだ」と寿ぐ台詞を述べていた点でした。この狂言は祝祭曲でもある、ということです。
ところで佐渡には本当にキツネがいないのか?今年5月に佐渡島へ遊びに行ったときにタクシーの運転手さんが「クマもシカもサルもいない。タヌキはいるがキツネはいない」と教えてくれて驚いたのですが、これは事実です。キツネがいないのは昔、団三郎狢という佐渡狸の頭領の奸計にかかってひどい目に遭ったからだと言い伝えられていますが、もちろんこれは御伽話。実際の理由は、佐渡島は他の島嶼部より早く数十万年前(更新世中期頃)に本州との陸橋が水没し、その時点の生物相を維持しているからです。なお、農業にとって害獣となるサドノウサギの繁殖を抑えるために1960年代にキツネとテンが導入されたことがあるものの、テンが今も生息しているのに対しキツネは定着しなかったのだそう。もしかすると、今でも団三郎狢の呪いが残っているのかもしれません。
続いて休憩前まで。
- 清経キリ:佐藤俊之師。悲壮感漂う修羅道の闘争を、すばらしいスピードで。
- 松風:山井綱雄師。対照的にゆったりと、しかし徐々に舞が大きく、そして最後は静かに。それにしても師が脳卒中で倒れたのは1年半前、本当にこの方は「不死鳥」だなと思います。
- 是界:山中一馬師。ダイナミック!そろそろ観ている方も体力が必要な頃合いですが、一番一番に見どころがあって目が離せません。
- 歌占キリ:辻井八郎師。憑依されたシテが苦しむ描写を地謡陣の一人・井上貴覚師との掛合い[1]で謡ってから、分厚い地謡を背景に狂いが覚めて我が子と共に帰路に就くまでを大きな舞で。
- 玉ノ段:高橋忍師。能一曲に相当するドラマが凝縮されていて、胸が熱くなりました。泣けます。
- 野守:金春穂高師・吉谷潔師(太鼓)による一調。穂高師の豊かな低音域での謡と太鼓の高い音がベストマッチ。そして太鼓の演奏における掛け声の重要性を今さらながらに実感しました。
- 実盛キリ:櫻間金記師。枯淡の境地……ということは全然なくて、老武者の矜持を示す目の光や足腰の強靭さに驚嘆。齢を重ねる(老いる、ではなく)とはこういうことか。
- 花筐クルイ:本田光洋師。最後に舞われたこの仕舞は長時間にわたりましたが、最初から最後まで、達観したような穏やかな表情と美しい立ち姿が変わることはありませんでした。
この日配布されたプログラムの中に金春円満井会理事長としての高橋忍師の「ごあいさつ」が掲載されていましたが、そこにはこの公演でかくもたくさんの仕舞が演じられることへの言及がありました。
今回の公演では、多くの仕舞をご覧いただきます。仕舞は各個人のキャリア、技術がストレートに見えてしまいますので、ある意味能楽師にとってもプレッシャーのかかる上演形態です。各能楽師の生き様をご覧いただきたく存じます。
この言葉通りそれぞれの能楽師の生き様と、そして演じられる登場人物の生き様を、二つながらに拝見し続けたここまでの2時間でした。

30分間の休憩で観る側も息を整えて(私はいつものように「お食事処 ひまわり」でクリームソーダをいただいて)から、いよいよ「関寺小町」に臨みます。
関寺小町
確証はないものの、世阿弥作であろうとされている曲。七夕の夜、近江国・関寺周辺を舞台とする一場物の現在能(「姨捨 / 伯母捨」「檜垣」は複式夢幻能)です。この「関寺小町」は金春流では宗家の一子相伝とされており、明治以降では金春光太郎(八条)師(1946 / 1956)と金春信高師(1998[2])が上演しているほか、例外的に櫻間弓川師(1955)も舞っています。さらに、宗家以外でも舞えるようにと金春安明師が詞章を部分的に改めた《古式》を作り、これに基づいて安明師自身(2011[3])と本田光洋師(2022)も演じていますが、今回の上演は小書なし。つまり家元バージョンです。
◎ここから舞台上の様子を記しますが、まだ勉強が十分ではないので、以下の記述はあくまで将来の自分のための覚え書きです。
お調べの音が聞こえ、見所の照明が心持ち落とされ、そこからしばらくの間[4]があってから地謡・囃子方が舞台上に着座し大小前に藁屋が設えられて、子方・ワキ方の登場楽。事前に予習した〔1955版〕ではここで笛と小鼓による独奏→合奏からなる「音取置鼓」がじっくり演奏されてから次第の囃子に移っていましたが、この日は短く1分ほどひそやかに笛が奏されたところでヒシギが吹かれました。次第の囃子と共に登場した子方/関寺の稚児(倉脇蓮奈さん)は緑地に筏文様の舞衣と白大口、ワキ/関寺の僧(宝生常三師)とワキツレ/従僧三人は大口僧出立です。待ち得て今ぞ秋にあふ、星の手向を急がん
と謡われるように、この日は七夕。自らを江州関寺の住侶であると名乗ったワキは、この山陰に藁屋を設えて住む老女が歌を詠むということなので稚児を伴って訪れようとするところだと述べ、ワキツレと共に七夕の夕べの情景を美しく描写してから着キ台詞となります。
一行が脇座から地謡の前にかけて着座したところで藁屋の引廻シが下ろされ、中から現れたのはシテ/小野小町(金春安明師)。着用している唐織は落ち着いた色合いの女郎花文様で、作リ物の左右には短冊が下げられています。侘び住まいの内に老いさらばえていく我が身を嘆き、昔を偲んで涙を見せるシテのあら来し方恋しや
の深々とした繰り返しに惹き込まれていると、しみじみとした笛のうちに立ち上がったワキが子方を伴って藁屋に向かい、その呼掛けに対してシテはや、人のおん入り候ぞや
。ここからシテとワキとの問答になります。
シテに対して来意を告げたワキに対しシテも気持ちを切り替えて穏やかに応じましたが、ここで両者の間に交わされる歌論に織り込まれる「心を種として」「難波津の歌」「安積山の歌」「浜の真砂は尽くるとも」などは、紀貫之による『古今和歌集 仮名序』からの由緒正しい引用です。さらに、古来女性歌人は少ないのにあなたのように歌の道に詳しい女性は珍しいとシテを持ち上げたワキとの会話を通じて、シテが記紀に伝わる衣通姫そとおりひめの流儀を学んでいると述べたことから、小野小町も衣通姫の流れ(これも『仮名序』)であることを知っていたワキが「わびぬれば[5]」の歌を持ち出したところ、ここでシテがつい「[6]文屋康秀が三河の守として任地へ下る際『田舎で心を慰めてはどうか』と私を誘ったので詠んだ歌だ」と遠くを見る目になり涙したので、ワキは驚きます。
しかし、衣通姫の流儀でもあり歳の頃も合うので目の前の老女は小野小町に違いないと確信したワキの今は疑い不審もなし。おん身は小町の果てぞとよ。さのみな争いたまひそとよ
という言葉にシテは、かつて「色見えで[7]」と詠んだ私の心の花の移ろいは外に見えてしまったのだろうかと恥じ入りました。そしてワキ・子方が脇座に戻り、舞台上の空気がいくぶん変わってクリ・サシ・クセ。この中にも「思ひつつ[8]」「あるはなく[9]」の二首が詠み込まれ、前者では恋の思いを詠み詠まれた若かりし日を、後者では世の無常を嘆いた初老の頃をそれぞれ思い出して、そのいずれも昔のことだがせめて今はまた初めの老いぞ恋しき
とシオリます。さらにクセの後半では短冊を手にとって扇を筆に見立てる型も見られましたが、その言葉もとだえがちであると短冊を捨てて老の身の弱り行く果てぞ悲しき
と扇(筆)を持つ右手でシオリました。
するとワキはシテの気持ちを引き立てようとするようにいかに老女、七夕の手向むかえにおん出で候へ
。さらにためらうシテを励ましたワキは子方にただただ御手を引き申せ
と呼び掛け、これを受けて立った子方が藁屋の前に進むとシテの手をとって引く形になります。かくしてシテは杖にすがりながら藁屋から出てその右(常座側)で床几に腰掛け、ここで舞台上は七夕の祭りが行われている関寺の境内ということになりました。そしてワキから子方へ、子方からシテへと扇を開いて酒を注ぐ様子が示された後、くっきりとよく通る声で子方の謡星祭るなり
。ここに地謡が呉竹の
と続けてから子方による中ノ舞となりましたが、これが実にすばらしいものでした。今年2月に「自然居士」で初舞台を踏んだという倉脇蓮奈さんは、ここまでの立居振舞いでもきりっとした役者ぶりだったのですが、一貫して安定した運ビの中に舞台を廻りながら袖を翻し、足拍子を踏み、弛むところがありません。どれだけ稽古したらこうなれるのかと感銘を受けるほどでしたが、この稚児の舞が見事であればあるほど、この後にシテが自分も舞う気持ちになるという展開が説得力を帯びることになります。
子方年まちて、逢ふとはすれど七夕の
、地謡寝ぬる夜の数ぞ少なかりける
[10]。そしてあら面白の童舞の袖やな
と感興を覚えたシテは、後に謡われるワカの冒頭の百年ももとせは
を長〜く引いて謡ってから立つと、右手の扇を左手の杖の上に横渡しにした丁字を作りしばらくその姿のままでしたが、やがて足を進め始めます。しっとりとした囃子に支えられて杖をつきつつゆっくり舞台を廻ったシテは、藁屋の前で杖を後見に渡すと扇を手に長い(手元の時計で20分ほど)序ノ舞を舞いましたが、その心持ちは舞い納めた直後のワカに百年は、花に馴れこし胡蝶の舞
とあるように懐旧の思いをこめて胡蝶のごとく舞おうとするもの。脇正面席の前の方から観ていたために視界が限られ、所作のすべてを目にすることはできていませんが、シテ柱に寄り添って休息するといったあからさまな老女らしさの表現は見られず、むしろ若かりし日の小野小町の華やぎや気品を漂わせる瞬間もあり、さらに舞台上の四つの柱のそれぞれに向けて握った左手や逆手に扇を持つ右手を差し出す姿も印象的でした。結局のところ、この序ノ舞にこめられたシテの思いをつかむには至らなかったのですが、囃子の変化(緩→急→緩)も踏まえると、序ノ舞を通して描き出されたのは百歳の老残ではなく百年の生涯だったのではないかという気もします。
ともあれ藁屋の前で舞い納めたシテは、舞の手を忘れ足元も弱ってしまった我が身をあらためて自覚することになり、地謡があら恋しの古へやな
と謡う中、藁屋の前でシオリを見せてから、後見から杖を受け取って再び扇との丁字を作ります。そしてシテ早明け方の
、地謡関寺の鐘
と続く夜明けの情景になりますが、ここは大鼓の聴かせどころ。上述の〔1955版〕では地謡が謡を短く止めてできた無音の中に大鼓(川崎九淵師)が掛け声なしで強く打ち込んでいましたが、この日の大鼓(安福光雄師)は関寺の鐘
にかぶせてクレシェンドした上で地謡が鐘〜
と引いている中にひときわ強く打たれ、これまた劇的な効果を上げていました。
キリの詞章にはいとま申して帰るとて、杖にすがりてよろよろと、もとの藁屋に帰りけり
とあるので、シテはワキたちを残して一人で藁屋へ帰ることになるはずですが、舞台上では立ち上がった子方・ワキ・ワキツレがシテの前を渦を巻くような動線で通り抜け、そのまま橋掛リを下がっていきました。そして、ワキたちの姿を見送ったシテは藁屋に入ると杖を捨て、膝をついて左袖で面(成れの果ての我が身)を隠しましたが、やがて地謡の低音域でのリタルダンドの中で立ち上がると、謡が終わった後の囃子を聞きながら藁屋を出て常座側に立ち、橋掛リの方向を見る形で終曲を迎えました。
この曲の中心に昔を思い今を嘆く老女の気持ちがあることはあら来し方恋しや
あら恋しの古へやな
といった詞からも明らかです。しかし、主人公は単に華やかだった昔と侘び住まいの今とを比較して乗り越えられない時の隔たりを嘆いているわけではなく、折々に詠んだ和歌を媒介にしつつ今もいなんとぞ思ふ
初めの老いぞ恋しき
と長い生涯を一体のものと見ての述懐を漏らしています。そうであるなら、百歳の今でもいっときの輝きを取り戻せると考えることはあながち無理なことではないはず。たとえ舞い終えたときに我が身の衰えを再確認することになっても、牽牛・織女の二星の下で舞っている間のどこかの瞬間では老女は幸福だった頃の小町に戻れたのではないか。このように考えれば、稚児の舞も老女が輝きを取り戻すきっかけを作ってくれたのですから、若さvs.老いの二項対立として見なくてもいいわけです。
……というのはシテに感情移入してしまった私の希望的解釈ですが、一曲を通して「悲惨な曲」という感じはしなかったのも事実です。
ちなみに、最後に子方やワキたちが一斉に引き上げていく姿には「邯鄲」で盧生の夢が覚める場面を連想してしまいました。この連想の延長線上には、七夕の祭りとそこでの舞も実は老女の夢の中の出来事だったのではないか、そしてシテが残リ留の形で見やった先には彼岸が見えていたのではないかという世界線が浮かびますが、ここまでくると連想ではなく妄想だと自分でも思うので、ここで打ち止めにしておきます。
ともあれ、初めて観た「関寺小町」はやはり強い印象を残しました。シテの金春安明師が作る独特の空気感はもとより、ワキ方は盤石、子方も見事。そして囃子方と地謡とにこれだけ聴き入ったのも自分としては稀有な体験でしたが、これは予習の賜物だったかもしれません。できることならこれからも、さまざまな流儀のさまざまな演出で観られればと願うのですが、なんと言っても最奥秘曲。果たしてこの「将来の自分のための覚え書き」を生かす機会は得られるものでしょうか?
なお、実は仕舞のときにやたらと拍手を先導しようとする観客がいたので、「関寺小町」でもシテが橋掛リを下がっていくときに同じことが起こるのではないか(「姨捨」のトラウマ……)と心配していたのですが、これは杞憂に終わり、見所はおおむね静かに演者の退場を見送って余韻が損なわれることはありませんでした。そして藁屋が下げられた後に謡われた附祝言は「高砂」でした。
配役
| 仕舞金春流 | 難波 | : | 金春憲和 | |
| 葛城 | : | 柏崎真由子 | ||
| 放下僧コウタ | : | 村岡聖美 | ||
| 岩船 | : | 中村昌弘 | ||
| 蝉丸 | : | 井上貴覚 | ||
| 舎利 | : | 本田芳樹 | ||
| : | 本田布由樹 | |||
| 狂言大蔵流 | 佐渡狐 | シテ/佐渡の百姓 | : | 大藏彌太郎 |
| アド/奏者 | : | 大藏彌右衛門 | ||
| アド/越後の百姓 | : | 大藏章照 | ||
| 仕舞金春流 | 清経キリ | : | 佐藤俊之 | |
| 松風 | : | 山井綱雄 | ||
| 是界 | : | 山中一馬 | ||
| 歌占キリ | : | 辻井八郎 | ||
| 玉ノ段 | : | 高橋忍 | ||
| 一調 | 野守 | : | 金春穂高 | |
| 太鼓 | : | 吉谷潔 | ||
| 仕舞金春流 | 実盛キリ | : | 櫻間金記 | |
| 花筐クルイ | : | 本田光洋 | ||
| 能金春流 | 関寺小町 | シテ/小野小町 | : | 金春安明 |
| 子方/関寺の稚児 | : | 倉脇蓮奈 | ||
| ワキ/関寺の僧 | : | 宝生常三 | ||
| ワキツレ/従僧 | : | 舘田善博 | ||
| ワキツレ/従僧 | : | 梅村昌功 | ||
| ワキツレ/従僧 | : | 則久英志 | ||
| 笛 | : | 一噌隆之 | ||
| 小鼓 | : | 観世新九郎 | ||
| 大鼓 | : | 安福光雄 | ||
| 主後見 | : | 金春憲和 | ||
| 地頭 | : | 高橋忍 | ||
あらすじ
佐渡狐
→〔こちら〕
関寺小町
七夕の夕方、関寺の住僧が稚児や従僧を連れ、山陰に住む和歌を能くする老女を訪ねる。住僧は和歌問答をするうちに、老女が小野小町の百歳の姿だと知る。小町は昔を懐かしみ世の無情を悲しむ。住僧は小町を七夕の祭りに誘う。稚児の舞を見た小町は老女の舞を静々と舞う。明け方になると小町は杖にすがり、もとの藁屋に帰っていく。
脚注
- ^上掛リではシテとツレ、下掛リではシテとワキが掛け合う場面。
- ^序ノ舞の中で倒れたため、途中から後見・金春晃実師が代演。
- ^高橋汎師病気降板に伴う代演。
- ^上演翌日に公開された山井綱雄師のブログ(2025/12/18閲覧)によれば、実は開演直前に子方が体調不良になってしまったとのこと。緊張のせいだったのかな?このため、子方が最初に脇座に着座したときと中ノ舞を終えて脇座に戻ったときに、地謡後列の左端にいた山井綱雄師がその後ろに移動して気遣っていましたが、舞台上での子方の立居振舞いが見事だったことは上述した通りです。
- ^小野小町
わびぬれば身を浮き草の根を絶えて 誘ふ水あらば往なんとぞ思ふ
(『古今和歌集』) - ^他流では「文屋康秀が云々」の前に
これは大江の惟章が心変りせしほどに、世の中物憂かりしに
という説明的な言葉が入ります。現行の金春流にこれがないのは江戸時代後期に何らかの事情でカットされたためらしく、安明師はこの省略に疑問を持っていたので《古式》で復活させましたが、この日の「家元バージョン」では(不本意ながら?)カットされた形で謡いました。 - ^小野小町
色見えで移ろふものは世の中の 人の心の花にぞありける
(『古今和歌集』) - ^小野小町
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
(『古今和歌集』) - ^小野小町
あるはなくなきは数添ふ世の中に あはれいづれの日まで歎かん
(『新古今和歌集』) - ^凡河内躬恒
年ごとに逢ふとはすれど七夕の ぬる夜の数ぞ少なかりける
(『古今和歌集』)
参考
- 「関寺小町」に関して
- 『世紀の能 金春流 関寺小町(1955年9月26日 水道橋能楽堂にて申合せを録音)』(花もよ編集室)。
- 『能楽タイムズ 2025年12月号』(能楽書林)。
- 金春安明『金春の能〈中〉近世を潤す』(金春円満井会 2025年)
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