白田村

2026/01/30

セルリアンタワー能楽堂(渋谷)で、昨年8月29日の「小鍛冶」(金春流)、同10月17日の「鉄輪」(宝生流)に続き渋谷能第三夜「白田村」(喜多流)。シテは佐藤寛泰師、地頭は友枝雄人師です。

「田村」は2013年に観世流(観世清和師)で観ていますが、今回の「白田村」は喜多流独自の特殊演出で、普通は曲名の脇に小書として《白式》などが付くところ、この曲では曲名自体が変化しているというわけです[1]。そしてこの特殊演出の眼目は、シテの存在がより神格化されて全体にどっしりとし、型も謡も大きく、かつ緩急をつけて舞われる点にあるとされています。

まずはいつもの通り金子直樹先生による解説が行われ、「白」の意味、あらすじと見どころ・聞きどころ、そしてこの曲は修羅の苦しみとは無縁の修羅能らしからぬ修羅能である、といった説明がなされた後に、かつて「千手観音ということは500の右手に500の左手なのだから、一度に射ることができる矢の数は(詞章にある1,000本ではなく)500本ではないのか」と素朴な疑問を呈して先輩から叱られたという「余談」が披露されて見所の笑いを誘いました。言われてみれば確かに先生のおっしゃる通りですが、それよりも最初の方で語られた「何もない能舞台上に桜満開の清水寺をイメージしてください」という言葉が、この後の鑑賞において効果絶大でした。

白田村

金子先生の説明にあったように、この「田村」は一応は修羅物、しかも「屋島」「箙」と共に勝修羅に分類されるものの、勝にせよ負にせよ死してなお修羅の苦しみから逃れられない武士の業を描く他の曲とは異なり、清水寺の創建縁起と観音の利益を主題とした祝祭的色彩の強い能とされています。主人公は平安中期の征夷大将軍・坂上田村麻呂、季節は弥生、場所は清水寺です。

杉信太朗師の美しい笛に誘われて登場したワキ/旅僧(福王知登師)とワキツレ二人、次第は鄙の都路隔て来て、九重の春に急がん。型通り名ノリから道行、着キ台詞を経て一行が脇座に控えた後に、ひゃらひゃらと息の長い笛を伴う一声[2]が奏されて、俗世を超越した面立ちの童子面を掛けた前シテ/童子(佐藤寛泰師)が登場します。黄色い水衣を着用し、着付は白地に金糸の細かい割付文様と紅の入った草花を囲む丸文。右手に萩箒を携えて、舞台に進んでの一セイおのづから春の手向けとなりにけり、地主の桜の花盛りの後には、常であれば清水寺の桜を褒め称え、観る者の視界を花の色に染めるシテのサシコエが入りますが、この日の「白田村」ではこれは省略されます。

そんなわけで早速にワキとシテとの問答が始まって、中央に出たシテがそもそも当寺清水寺と申す事は以下、清水の観音の縁起(上掛リの詞章よりもいくぶん詳細)を朗々と説く語リ。その最後に坂上の田村丸〜と謡って、続くありがたさ満載の詞章を地謡の初同に引き継いでから、次に名所教に移ります。ここは以前教わった流儀による方角の違いが明確に確認できるところで、前に観た観世流と今回の喜多流とでは方位がほぼ180度逆になります。

南の清閑寺は笛柱方面、北の霊山寺は目付柱方面、そして音羽山のある東は揚幕方面。この三方を眺める中に「入相(の鐘)」「出でたる月」と夜を迎えることを示す語が巧みに織り込まれ、最後に境内の花の梢が正面を向いて示されると、先ほどのサシコエの省略もものかは、我々の心の目には観音の大慈悲心の下で月と花とが競演する清水寺の情景が一気に立ち上がり、鏡板の松さえも満開の桜に見えています。かくして蘇東坡の「春夜」より春宵一刻直千金 花有清香月有陰をシテとワキとが同吟ではなく分け合ってひときわじっくりと謡い上げた後、シテは箒を捨ててついとワキに寄るとその右腕をとり、二人並んで目付柱の彼方に雪月花(「雪」は散る花びら)の揃った情景を眺めてから、左右に分かれていよいよ前場のクセに入ります。

時に足拍子を踏み、扇を掲げながら優雅に舞われるクセの詞章は、地主権現の桜の美しさを賞賛すると共に観音の救いを頼みとせよという内容ですが、その終わりには天も花に酔へりやと陶然とする様子が左手を頭にやり前髪をつかむ型で示され、そしてクセ舞を舞い納め中央に下居して扇を閉じた童子の姿を見れば、いつの間にか登場時とは異なる風格が漂っています。ここで名を問われたシテは帰る方を見給へとだけ答えて立ち上がり、脇正から揚幕の方を眺めやってから正先方向に出て扇を前に田村堂の戸を押し開ける型を見せ、そして地謡が内陣に入らせ給ひけりと謡い終えるより早く揚幕の内に姿を消しました。

アイ/門前の者は野村裕基師。最初に「詳しいことはわからないんですけど」と言っておきながら実際には立板に水で清水寺創建譚と鈴鹿鬼神退治を語るのは間狂言のお約束通りですが、萬斎師を彷彿とさせるその堂々たる語り口は立派。この語リだけで一つの芸能として成立している感じです。

ワキとワキツレによる読誦の待謡から再びの一声ははっきりと力強く、大小が掛け声を合わせ複雑にリズムを組み上げる様子に聴き入っているところへ登場した後シテ/坂上田村麻呂の霊は、まっすぐ立てた梨打烏帽子と金色の鍬形の下に白田村面、衣紋に着て肩上げした白地の狩衣には金糸の松皮菱に亀甲花菱や竹の文様を載せ、半切も白地に金の六つ雲亀甲で、修羅物ながら曲中抜かれることのない長大な太刀が腰の後方に反り返り、神々しくも完全武装の出立です[3]。その花の光に輝く姿に驚くワキの問いに答えてこれは人皇五十一代、平城天皇の御宇にありし、坂上田村丸と名乗ったシテが中央で馬上よろしく床几に腰掛けて、鈴鹿の悪魔を鎮めるべく軍兵を調えて仏前に祈願するさまを描くサシ。続くクセは近江路から鈴鹿への進軍の描写となり、立ち上がったシテは揚幕を向いて行く手を見据え、逢坂山を越えて石山寺に差し掛かれば角に向かって合掌。次の刹那、はっと身を起こして瀬田の長橋を力強く踏み鳴らし駒も足並や進むらんと手綱を引く型を作りましたが、その姿から発せられる威圧感は凄まじいものでした。

しかし、シテの見せ場はまだまだ続きます。上ゲ端を経てクセの後半は田村麻呂の軍勢が勇躍する様子を地謡が素晴らしい音圧で描写し、いったん床几に掛けていたシテも扇を開き再び立って力強い型を連続させてから、ついに天地にどよもす鬼神の声を耳にして、最高潮に達する囃子と共に力感あふれるカケリ。そして厳しく床を踏み鳴らし、鮮やかに身を翻したシテは脇正面を見据えつついかに鬼神もまさに聞くらん[4]。これに対し、重々しい地謡により鬼神が黒雲鉄火を降らしながら数千騎にも変じて激戦になろうとしたときに、シテは膝を突き扇を持つ手を差し伸ばしてあれを見よ不思議やな

ここから先は緩急の「急」となって一気呵成です。田村麻呂の軍兵の上に光を放って飛来した千手観音が千の矢を放つ様子がテンポアップした地謡・囃子によって描かれる中、シテは橋掛リを一気に幕の前まで進んでから一ノ松へととって返し、雨霰と降りかかる矢によって鬼神が討ち滅ぼされるさまを飛び跳ねる型で示すと、膝をついて千手観音に対し有難しと手をつきました。最後は舞台上を巡って常座で回り、観音の仏力を讃えるゆったりした謡の内に留拍子を踏んで終曲です。そして舞台上が無音になった後、武人に余韻は不要とばかりにシテは威風堂々と橋掛リを下がっていきました。


前場の花と月の清水寺の情景描写は静謐で美しく(アフタートークで本田芳樹師は「春風を感じるような爽やかさ」と表現)、かたや後場の進軍と闘争とは舞も謡も囃子も血湧き肉躍る系。その対比もまことに鮮やかでしたが、ことに後場の手綱を引く型やカケリにこめられたシテの気迫はすさまじく、本当に軍神・坂上田村麻呂が佐藤寛泰師に乗り移ったのではないかと思えるほど。「白田村」になればより神がかった、どっしりとした演じ方になるという話でしたが、終わってみればぐいぐいと引き込まれてあっという間の80分間でした。

もっともそのせいで、自分は「白田村」の真髄をちゃんとつかめたのだろうか……と些か不安を覚えてもいるのですが。

事前講座によるポイント解説

  1. ^喜多流では「田村」に《祝言之翔》という小書もあるが、「白田村」のように通常の小書よりも重く扱うときに曲名を変更するのは喜多流独自のこと。同様の例としては「白是界」「青野守」があり、さらに「猩々乱」(他流では「乱」)もある。
  2. ^出囃子(一声)が軽やかな前シテに対し後シテは少し強く、そして「白田村」ではしっかり目。そうした囃子の変化も注目ポイント。
  3. ^「田村」と「白田村」との見た目の違いはおおよそ次のようになる。
      田村 白田村
    前シテの面 童子(喝食にすることも)
    後シテの面 平太(武者らしい顔立ち) 天神(フライヤー参照)
    被り物 左折れの烏帽子 まっすぐの烏帽子と鍬形
    装束 紺地の法被を肩脱ぎ 白い狩衣を衣紋・肩上げ
  4. ^「田村」と「白田村」とでは詞章はほぼ変わらない(ただし童子の出の謡に省略あり)が、「白田村」になれば位≒速さがどっしりし、歩み方・型・謡が大きくなってくる。そして特にキリの舞の緩急が強くなる。
    → 仕舞(いかに鬼神も〜)で「田村」と「白田村」を両方舞ってみせてくれましたが、「田村」は比較的きびきびとして本舞台の中で完結していたのに対し、「白田村」では橋掛リまでをいっぱいに使いダイナミックな緩急を示しました。

アフタートークには、来る3月6日の第四夜に舞囃子「佐保山」で出演予定の金春流・本田芳樹師がまず登場しました。今日のシテを勤めた佐藤寛泰師が着替えて舞台に現れるまでのつなぎの話は第四夜の各演目(舞囃子と仕舞)の一言紹介で、「佐保山」は桜花の女神なので脇能ながら爽やか、「兼平」は典型的な修羅物で型が激しい、「巻絹」は巫女に神が乗り移り舞う神楽が見どころ、「女郎花」は型の見せどころ多し、観世流の「枕慈童」は金春流では「菊慈童」(そして金春流には別の曲として「枕慈童」がある)……というところへ佐藤寛泰師がやや紅潮した表情で登場しました。

まずは「長くないけれどぎゅっと詰まった体力のいる曲」(本田師談)を終えた佐藤師をねぎらってから、本田師がインタビュアーとなって質疑応答が行われました。そのあらましは次の通り(順不同)です。

  • 金春流にも「田村」に《白式》はあるが、喜多流の「白田村」はより重く、緩急がついてくる。また、一般的に小書がつくと詞章の省略を生じることが多いが、喜多流では小書がついても詞章の省略が少ないのが特徴。
  • 「白田村」では本来前シテを白くするという説もあるが、それでは童子がお化けみたいになってしまうので、今は後シテを白くすることとされている。
  • 「白田村」は喜多流の特色が出る曲。こういう扮装になるのはこの曲だけなので、そうした人物に合った気品を大事にしなければならない。それにしても、常の演じ方とこれだけ型が変わる特殊演出は珍しい。
  • 若いときに演じられる曲ではないが、今年の渋谷能の企画に際しこれまで渋谷能で修羅能が演じられていなかったので「白田村」を選んで流儀に申請し、許可を得て今回の上演に至った。

そして最後に渋谷能についてのコメントを求められた佐藤師は、過去(2019年)に五番立ての形式の中で舞囃子「猩々乱」を舞ったときのことを引き合いに出し(これに対し本田師から「あんなキツいの(しかも当日の申合せと本番の二度)よくできるな」と楽屋がざわついたという話が披露され)つつ、近い世代の他流の能楽師と立ち会えること、通常の能ファンではない客層にどうアプローチするかという重責、といった渋谷能の特色を指摘した上で、最後の第四夜では各流儀の特色を楽しんでもらえれば、と結びました。

なお清水寺と言えば私は、2009年春に訪れたとき折よく開山堂(田村堂)特別開扉及び御本尊御開帳に行き当たったことがあります。おかげでこのときは開山堂内の坂上田村麻呂公坐像・高子夫人坐像や本堂の本尊十一面千手観世音菩薩立像(秘仏)ほかを拝むことができました。もっともそれら諸尊の記憶はもはや朧げですが、少なくともこのときの旅が天気に恵まれて満開の桜(特に謡曲「西行桜」で知られる勝持寺)を楽しめたことは覚えています。

翻って今の自分はと言えば、頸椎の不調に伴う体調不良で11月後半からずっと暗い冬を過ごしていますが、今日ひと足先に心の目で眺められた清水寺の桜にあやかって、明るい春を迎えたいと願うばかりです。もし御利益あって春までに体調を回復することができれば、花の清水寺へ御礼参りに訪れてもいいかも。

配役

喜多流 白田村 前シテ/童子 佐藤寛泰
後シテ/坂上田村麻呂の霊
ワキ/旅僧 福王知登
ワキツレ/従僧 矢野昌平
ワキツレ/従僧 村瀬慧
アイ/門前の者 野村裕基
杉信太朗
小鼓 成田達志
大鼓 大倉慶乃助
主後見 狩野了一
地頭 友枝雄人

あらすじ

白田村

→〔こちら

そろそろ

ところでこの日、正面席最後列に座っていた和装の女性二人が休憩時間中のおしゃべりをお調べが始まっても止めずにいたところ、その前の列にいた女性が振り返って柔らかく、しかし毅然とした口調での「そろそろ」の一語で沈黙を促す場面を目撃しました。もちろん悪気はなかったにせよ、お調べが始まれば能楽堂の中の空気をこれから始まる曲の世界に近づけていくのは演者と見所の共同作業ですから、おしゃべりしていたお二人を制したのは適切な注意喚起だったと思いますが、それにしても「そろそろ(お静かに)」とは上手な言い方だなぁと、いたく感心してしまいました。機会があれば自分も「そろそろ」を使ってみようかな。しかし、柔らかく毅然と、というのは意外に難しそうだな。