コーカサスの白墨の輪

Imp. 952 〔作〕ベルトルト・ブレヒト〔演出〕瀬戸山美咲

2026/03/27

世田谷パブリックシアター(三軒茶屋)で音楽劇「コーカサスの白墨の輪」。演出は瀬戸山美咲(敬称略・以下同じ)、出演は主人公グルーシェが木下晴香、その恋人シモンが平間壮一、最後に大岡裁きを見せるアズダクが眞島秀和、語り部役の歌手が一路真輝。

ブレヒト原作(1944年)の「コーカサスの白墨の輪」は2005年に串田和美の演出による舞台を観ており、そのときの主人公グルシャ(この舞台での役名)は松たか子、シモンは谷原章介、アズダック(同)は串田和美という布陣でした。場所は今回と同じ世田谷パブリックシアターで、今にして思い返せばなかなか凝った楽しい舞台だったのですが、当時の自分は観劇経験が浅くて演出意図を正しく汲み取ることができず、そのために少なからぬ違和感を覚えたまま劇場を後にしてしまいました。しかしその後、多少は観劇の回数を重ねるうちにあのときの自分の見方は浅かったのではないかと思うようになり、再びこの戯曲が舞台にかかる機会があれば観てみようと思っていたところ、昨年末の「シッダールタ」や今年1月の「劇場ツアー」で世田谷パブリックシアターを訪れたときに本作のフライヤーに接し、それならとチケットを買い求めたというわけです。

なお、眞島秀和・一路真輝のお二人の組合せは2015年の「道玄坂綺譚」でも観ており、この舞台の印象がとても良かったことも、このチケット獲得を後押ししてくれました。

例によって、公式サイトに記されている「あらすじ」を最初に引用します。

未来の戦争が終わった後、荒れ果てた大地に人々が戻ってくる。土地の所有をめぐって対立する人々に向けて、旅の一座の歌手が、かつて起きた戦争の物語を歌い始める。

復活祭の日、太守が倒されるクーデターが起きる。料理女・グルーシェは混乱のさなか、戦地へ赴く兵士シモンと結婚の約束をする。シモンと別れたグルーシェは、城から逃げ出す太守夫人・ナテラが”こども”を置き去りにするのを目撃する。グルーシェは、友人の料理女・スリカの制止を振り切り、”こども”を連れて逃亡する。そして、厳しい寒さの中、たどり着いた辺境の地で、グルーシェはシモンを待ちながら”こども”を育てていく決意をする。

一方、呑んだくれのアズダクは、戦争の混乱の中、でたらめな経緯で裁判官に選ばれる。アズダクは賄賂を懐に入れ、イカサマまがいの判決を下していく。

やがて内乱が終わり、ナテラが”こども”を連れ戻しにやってきた。ナテラとグルーシェ、どちらが”こども”の母親か。アズダクによる裁判が始まる。

この内容をあらかじめ頭に入れておけば鑑賞がスムーズになりますが、本作が原作とはっきり異なっているのは、時代設定を「第二次世界大戦末期の時代から振り返る遠い過去」から「遥か先の未来から振り返る今より少し先の未来」へと飛躍させている点です。そこから派生する変更点やその他の設定変更については、舞台進行の様子と観劇終了後の感想の中で適宜記述していきます。

◎本稿では、特にことわりなく「原作」と記したときはブレヒトが著した『白墨の輪』(参照したのは〔訳〕内垣啓一(1962年))を、「本作」と記したときはこの舞台を示します。なお、原作のあらましは〔こちら〕。

劇場内に入ると、まだ光が当たらず暗い舞台上には左奥から手前へ緩やかにカーブを描く道路のような構造があり、その左脇のスペースに楽器のブースがあって、さらにちらっと張り出した正体不明の巨大な物体が顔を覗かせていました。この物体については後で触れるとして、この構造がいかなる設定かということがプログラムの中に記されていたので引用します(右のセット模型の写真もプログラム掲載のもの)。

雨が降っている/放火を浴び、瓦礫と化した都市。/舞台奥から手前に高速道路のような幅の広い道が伸びる。/先端は破壊され、下に折れ曲がっている。/それは人間の文明の終わりを示しているようでもある。(瀬戸山美咲の上演台本、冒頭のト書)

実際の舞台は先端がこのように不整形ではなく一直線になっていましたが、そこに2カ所、客席内の通路と舞台上とをつなぐ短い階段が切れ込んでいるおかげで、構想上のギザギザ感がある程度実現していました。そしてBGMの代わりに渺々と風が吹き渡る音が流されて早くも荒廃した雰囲気を醸し出していましたが、残念なのは客の入り。1階席は半分くらい?2階席は私を含めて2人、3階席もたぶん片手に満たなかったと思われます。平日のマチネなので仕方ないのかもしれませんが、実にもったいないことです。しかしそのおかげで、他の観客に気兼ねすることなく上演中にメモをとることができますから、これは気合いを入れて舞台に集中しなくては。

そんなことを思いながらふと見上げれば、はるか高いところに雲の天井。世田谷パブリックシアター名物のこの天井は4月からの改修工事に伴い撤去されてしまうので、これが見納めです。

▼以下、観劇の記憶と手元のメモにより舞台を再現します。ここを飛ばしたいときは〔こちら〕。

本作は途中に休憩ありの2幕で構成されており、全体の上演時間は休憩抜きで145分です。手元に上演台本がないので、見逃した点や見誤った点、気づけなかった点があるかと思いますが、あらましこのような進行でした。


第一幕は雨の音から始まる。客席と舞台奥から現れて舞台上で対峙した二つの集団は、戦争でこの地への帰郷を願うグループ「ガリンスク」と、隣接する地のグループでここに発電プラントを建設したいと考える「ローザ」。首都から来た委員会の者が仲介する緊迫した話し合いも、「ローザ」のエンジニアのプランと「ガリンスク」のプランが似ていることがわかって和解につながり、歌手アルカーディを呼んで余興の歌を皆が聞くことになる。歌われるのは、歌つきの芝居「白墨の輪」。

  • 言葉の端々に、戦っていた相手が「人間」であることが語られており、未来であるという設定と合わせて考えると、ここにいる人々はアンドロイドであることがすんなり理解できます。
  • 原作の「牧畜か果樹栽培か」という対立は「どちらも発電プラント」に、ガリンスクがローザに評価させるチーズはオイルに置き換えられ、図面を示すときには空中に四角を指で描くと電子音が鳴る、といった具合に原作に対する改変が加えられていますが、対話の流れやその中で出てくる帽子のエピソードなどは原作に忠実です。

最初の曲が全員で賑やかに歌われる中、人々は順次コートを脱いでカラフルな衣装に姿を変え、舞台上は過去の人間社会での出来事に置き換わる。そこは復活祭の日の宮殿前。大きな白い門の前に太守ゲオルギと太守夫人ナテラが乳母車に我が子ミヘルを乗せて従者たちと共に現れ、請願者に囲まれ、豪族カズベクと会話を交わしてから教会(下手)へ向かう。緊迫した戦況を伝えようとする情報将校らしき男が、報告の機会をつかめずやきもきしている。

  • オープニングナンバー《クーデター》は軽快なロック。演奏者はベース、ギター、ドラムの3人ですが、曲にはキーボードの音が含まれており、その音源に同期して演奏している模様。
  • 上述の正体不明の巨大な物体は黒っぽい板や梁を組み合わせた平板なもので、これが下手から上手へ移動する間に場面転換が行われる(ここでは宮殿の門が降りてくる)という演出が見られます。この場合の移動する巨大な板はブレヒト幕として機能していますが、後の場面ではホテルや民家の壁などにも見立てられました。
  • ゲオルギは恰幅よく毛皮のコートにサングラスでロックスター然とした姿、ナテラは光沢のある紫のどこかアラビアンナイトを思い起こさせる衣装にショートカットの髪型が颯爽。そしてミヘルの姿は驚いたことにひと抱えもある卵型で、これは受精卵が培養器に入っている姿を表しており、中から光ります。
  • 原作ではアズダクは全六場のうち第五場で初めて登場しますが、本作ではすでにこの場面でひっそりと飲んだくれており、太守たちが教会に入っていった後に前に出てきてひとしきり酔態を示しました。

走り込んできたグルーシェと待ち構えていたシモンとのやりとり。二人が門の向こうへ去った後に太守夫妻が登場し、戦況の悪化にも関わらずゲオルギがミヘルのために宮殿を増築しようとしていることが描写される。しかし、夫妻が下手へ消えた後に叫び声が起こり、カズベクがクーデターを起こしたことが告げられる。激しく緊迫した音楽と共に混乱した宮殿内の様子が描かれる中で、グルーシェとシモンは結婚の約束を交わしてから別れる。一方、ナテラは使用人たちを指図しながら宮殿から持ち出す衣装のセレクトに夢中だが、副官シャルヴァに急かされ慌てて逃げていく際にミヘルを放置してしまい、なぜかグルーシェがミヘルを引き取って逃げることに。

  • 緑色の動きやすそうな衣装が溌剌とした印象を与えるグルーシェの登場は、冒頭のグループの登場と同じく客席の通路から。以後も人物の登場や退出に際してたびたびこの通路が使われることになります。
  • ナテラの衣装選びを手伝う使用人の一人でありグルーシェの良き仲間でもあるスリカ(原作の「第三の侍女」と「料理女」を合わせた役柄)はアンドロイド。そういう目で見ると衣装も初音ミク風です。電脳で情報収集を行ってグルーシェたちに伝えたり、テンパっているナテラの怒りを買ってスイッチをオフにされたりしますが、この後、語り部の役目を歌手と共に担ってグルーシェの逃避行を見守り続けることになります。
  • グルーシェが、同僚たちの勧めにも関わらずミヘルを放置せずに連れて逃げる選択をする場面はちょっと難しい。原作ではここで天啓のように「女よ、われを助けよ」という声が聞こえ、グルーシェは一晩悩んだ末にミヘルを抱きしめますが、本作ではスリカとの「まだ人間じゃない」「人間よ」というやりとりの中にすでにグルーシェの決意がこめられていて、何がそうしたグルーシェの決断を促したかがつかめませんでした。
  • この場面では、婚約した若い二人が再会を願いながら歌い踊る(その向こうでは遠く爆音が響き赤い光が明滅する)アップテンポな《あなたを待つ》、予想外の事態にキレそうになりながらナテラがパワフルに歌う《Everything is mine》、ミヘルを抱えて逃げるグルーシェの様子を歌手・グルーシェ・スリカが歌い継ぐミッドテンポ(歩行または鼓動のリズム)の《あなたと逃げる》と畳み掛けるように歌われていきます。

逃避行でのグルーシェの苦労。道中の民家では培養器に充電するために電気を分けてもらおうとしてふっかけられたり、出会った貴婦人たちの馬車に乗せてもらうことを狙って自分も貴婦人を装うもののバレて盗人よばわりされたり。ミヘルを抱えたグルーシェが舞台奥へ消えた後、舞台上を兵士たちや難民たちが行き交い、荒廃した世界の様子が歌われる。

  • 近未来を示すギミックの一つとして、お金の支払いを行うときには支払う者と支払われる者がリストを合わせると電子音が鳴り、これで電子マネーが移転した様子が示されます。ミヘルに必要なのがミルクではなく電気、という点もそうした道具立ての一つです。
  • かたや貴婦人の装いの二人が、現代の東京でよく見掛けるインバウンドよろしくスーツケースを引いている様子がどことなくおかしく、つい笑ってしまいました。
  • ホテルの支配人の慇懃無礼な雰囲気が独特。特に、グルーシェが貴婦人ではなく使用人だと気づいた客に警察を呼ぶよう言われたときの異様に長く乾いた高笑いが客席が引いてしまう(笑)ほどに摩訶不思議で、怪演と言ってよさそう。

難民たちが辿り着いた森にいたのは、アズダク。酔い取れて退廃的なその暮らしぶりが賑やかに歌い踊られた後に、アズダクは一人の難民の老人を自宅に招き入れ、食べ物を与えるが、その手がきれいなことから老人が上流階級の者であることに気づく。怒ったアズダクは老人を追い出そうとするが、そこへ訪れてきた旧知の警官シャウヴァに引き渡すことはせず、結局老人をかくまうことにする。

  • アズダクを紹介する一路真輝さんは、でたらめだ人でなしだとさんざんけなした末に、その端正な顔を歪めて「ア〜ズタック」と名前を呼んで、口にするのも穢らわしい!という口調(笑)。
  • この場面では、森を示す幹と枝だけの逆さの木々(根が見えているという見方もできるかも)が舞台の頭上に降りてきて緑の光を浴びています。その中に登場した酔って喜色満面のアズダクは、舞台を降りて最前列に座っている観客たちとタッチを交わして回りました。
  • 強いエレピのリフで始まり大勢で歌い踊る《アズダクのテーマ》は、最初のゆったりした2拍子から途中で曲調が変わってテンポの速いシャッフルになる作りで、プログラムの楽曲解説によれば、やはり酔っ払いによって二つの曲調が交互に歌われる《アラバマ・ソング》を参照しているそうです。そしてこの「途中でシャッフルになる」点が印象的だったことで、第二幕でまったく違った歌詞と歌い方でこの曲が歌われたときにそれと気づくことができました。
  • 後の場面でアズダクがかくまった老人が実は太公だったということが判明するのですが、ここは予備知識を持っていないと理解できないところかもしれません。原作の設定を元にすると、首都にあって国を治めているのが太公で、グルーシェたちの住むヌクハの都を治めているのが太公に任命されてこの地の領主(知事)となっている太守ゲオルギという支配構造なのですが、本作の台詞の中にはそうしたことを説明する言葉がないためです[1]

たび重なる苦労に困憊したグルーシェは、とある農家の戸口の前にミヘルを置き、農婦が引き取ってくれたことを確認してから、喜びを隠さずスキップしながら都へ戻ろうとする。ところがミヘル探索の重騎兵たちと行き会い、大あわてで農婦のもとに戻るが、培養器を見つけられてしまう。グルーシェは培養器を確かめる重騎兵を後ろから殴りつけ、ミヘルを取り返して逃げる。

  • 無事にミヘルを預けられたと思ったグルーシェが、シモンからもらった十字架を確かめてスキップして回る姿には、これで身軽になって都へ戻れるといううれしさがあふれているのに、そこで演奏された《わたし、うれしいの》はマイナーコードのカッティングから始まる悲しげな曲。歌手の問いかけにグルーシェが答えるかたちで歌われる中に、解放された喜びと説明のつかない悲しみとが共に表現され、最後は虚ろな表情で「わたし、かなしいの」と歌った後に無理に気持ちを入れ替えるように表情を変えて「わたし、うれしいの」と歌います。

自分がはからずも太公を助けてしまったことを恥じたアズダクは、警官シャウヴァに自分を都へ連行させるが、裁判官が白布に包まれて吊るされている様子を見てうろたえる。兵士たちがその様子を笑っているところへやってきた反乱者カズベクは甥を裁判官の席に据えたい考え、その場の人々の同意を求める。ところが、いかにも坊ちゃん然として頼りない甥の様子を見た兵士たちは、アズダクの助言にしたがい、アズダクを被告人=太公役とした模擬裁判を行ってテストした結果、意外にも弁の立つアズダクがカズベクの非を明らかにした結果、彼を裁判官に選出した。

一方、戦争は終わらない。歌手とスリカが語り手および歌い手として歌い継ぐ中に、白い埋葬布に覆われる被災者(サイズから言って子供)の姿、ナテラの逃走とこれに随うシモンの苦悩、雪の中をさすらった末にミヘルを養子としたグルーシェの姿が走馬灯のようにしみじみと描かれていく。やがて谷にかかる危うい吊り橋に達したグルーシェは、そこで行き止まっていた人々の制止を振り切って吊り橋を渡り、重騎兵たちの追跡を振り切ることに成功する。

  • 「一方」以下の場面で、風の音の中に緩やかに流れ続ける3拍子の曲は《戦場に雪は降る》。スリカ、シモン、グルーシェがそれぞれの心情をしみじみと歌う背後に連なるピアノの和音の動きが、Ben Folds Fiveの『The Unauthorized Biography of Reinhold Messner』に収録された「Hospital Song」を連想させました。それぞれの歌い手としての力量が最も発揮されたのも、深い情感をこめて歌われたこの曲だったと思います。
  • ぼろぼろになって雪の中をさすらい続けたグルーシェが、ミヘルに「もう別れることはできない」と語りかける言葉にも胸が熱くなりましたが、続く吊り橋の場面が前半のクライマックス。二つの命を賭けて渡る崩れかけた吊り橋は、強い光で白く輝く一本の線で示されましたが、これは上からの投影ではなく、舞台上に一直線のライトが仕込まれているものと思います。暗闇の中、下からの光に照らされたグルーシェが半泣きになりながら危なっかしく橋の上を進み、渡りきった先で感情を爆発させた場面は、いま思い返しても涙が出てきます。

吊り橋を渡り、追っ手の重騎兵たちを尻目にグルーシェが客席の中を抜けていって舞台が暗転したところで第一幕は終了。20分間の休憩となりました。


第二幕は太守夫人ナテラの様子から。ガツンと音楽が始まってミラーボールの光が踊る中に赤いカーテンを分けて出てきたナテラは、逃亡中の身でありながらご馳走を出させ、カードやダーツといったゲームに興じるなど相変わらずの傍若無人ぶり。

  • 豊かな表情と絶妙に交える裏声で「ミヘルに会いたい」とナテラが歌う《My baby》は、第一幕の《Everything is mine》と共に力強く、ちょっと能天気なディスコナンバー。ナテラの性格をそのまま体現しているようで、その突き抜け方を見ると、悪女のはずなのになんだか彼女が嫌いになれなくなるから不思議です。

一方、グルーシェはミヘルを抱えぼろぼろになって旅の目的地である兄ラヴレンチーの家に到着する。兄はグルーシェを労わってくれたが、兄嫁の手前、グルーシェは肩身が狭い。冬を越し、やがて春を迎えたある日、兄はいわば未婚の母状態のグルーシェとミヘルが居場所を見つけられるよう、瀕死の男との結婚話を持ってきた。ミヘルのためにも「書類上の父親が必要」と納得したグルーシェはこれを承諾し、相手の家に赴いて形ばかりの結婚式を上げる。ところが、引き続きそこは男の葬式の場になるはずだったのに、参列客の口から戦争が終わったという情報がもたらされ、シモンが帰ってくると喜んだグルーシェの背後で、死にかけだったはずの男ユスプがベッドから立ち上がった。兵役逃れの仮病だったのだ。凍りついた一同を追い出したユスプは、あてが外れたグルーシェに悪態をつき、彼女は絶望する。

  • 兄の家で冬を越したグルーシェが、編み物をしながら無伴奏で歌う鼻歌がとてもかわいらしく楽しい。歌詞の内容は、戦争に行った恋人に向かって「隊列の真ん中で軍旗の近くにいるのが安全よ」と呼びかけるものです(原作でも同趣旨の歌をグルーシェが機織りしながら歌います)が、最初は小声でつぶやくように歌っていたのに、だんだん興が乗ってきたのか自分でリズムをとったり「はいっ!」と合いの手を入れたり、ついには「でんででんででんででんで」と間奏を入れて声を張り上げます。この「でんででんで」からリズムがシャッフルっぽくなっていたので、これはもしやあの曲?と気づいたのですが、後でプログラムの楽曲解説を読んだところ《アズダクのテーマ》には流行歌という裏設定があり、二幕で意外な人物がアカペラで歌いますとあったので、間違いなくこれは《アズダクのテーマ》の替え歌です。
  • 結婚式が終わり、参列客兼弔問客たちが菓子を振る舞われているところへバンドのメンバーが楽士として参加。アコースティックギター・タンバリン・カウベルという組合せで短い即興演奏を聴かせたのですが、その背後でベッドからゆらゆらと上体を起こすユスプの姿が不気味すぎ。座席の位置の関係でその姿を正面から見ることになった私は、背筋に冷たいものが走りました。
  • その後、いったんは横たわったものの戦争集結の話を聞いて立ち上がってきたユスプのありようは、紛れもなくゾンビ。参列客を追い出した後に母親に持ってこさせた縁の低い風呂桶の中で、バランスを崩して前後に揺れながら必死に持ちこたえる姿も怪演、というかここまでくれば快演です。配役リストには記載がないのですが、この怪(快)演ぶりはもしや、第一幕のホテル支配人と同一人物?そして母親から湯を掛けられたユスプがその熱さに「……あっつ」と文句を言う場面が2回あるのですが、いずれも少量ながら本水が使われていました。

月日が過ぎ、シモンの面影が薄れてきても、ミヘルはまだ培養器から出てこない。グルーシェは川でリネンを洗いながら、近所の子供たちの戦争ごっこにミヘルを混ぜて遊んでもらうが、うんともすんとも言わないミヘルに子供たちが飽きたところへ、シモンが客席からゆっくりと近づいてくる。歌手とスリカが見守る中でグルーシェとシモンは言葉を交わすが、約束を果たそうと呼び掛けるシモンに対し、グルーシェは町には行けないと拒む。そしてグルーシェに子供(ミヘル)がいることを見てとったシモンは、静かに去っていく。その背中に向かってグルーシェが話を聞いてほしいと呼び掛けるところへ、都から副官シャルヴァが訪れてミヘルを連れて行き、グルーシェも後を追う。

  • 原作の雰囲気では、グルーシェと再会した時点でのシモンは軽口を叩けるほどに喜びに満ちており、本作でも台詞の大筋は変わっていないのに、ここでのシモンはなぜか最初からうつろな表情・口調をしています。最初のうちはこれを不思議に思いましたが、原作で「彼が思ったが言わなかったこと」として歌手が代弁した戦場の悲惨な情景描写を本作ではシモンが自ら歌っていたために、戦争がシモンから感情の起伏を奪ったのだろうと考えることができました。そしてこのことは、エピローグでのシモンの運命につながっていきます。
  • シモンが去ってしまう前に現れた副官とグルーシェとのやりとりを通じて、ミヘルがグルーシェの子ではなくナテラの子であることをシモンが耳にしたことにより、シモンのグルーシェに対する誤解の一部が解消するという設定は本作のオリジナルですが、巧みです。

レインボーカラーに照らされた樹木が天井からぶら下がり、3件の係争事案を通じてアズダクのでたらめな裁判官ぶりが描写される。開廷時には賄賂を求め、判決に至るロジックは理解不能。それでも金持ちからふんだくって貧しい者にばらまくその裁判ぶりは人気で、喜んだ人々はレヴューのように歌い踊り、舞台上はライトショー状態。ところがそんな喧騒がひと段落したところへ、血にまみれた白い箱=打倒された反乱者カズベクの首が通過していく。自分の運命が風前の灯火であることを悟ったアズダクが恐れ慄いているところへ、ナテラと副官が現れてミヘルの帰属を確定する裁判を行うよう命じる。

  • 実際のところ、3つの判決におけるアズダクの論旨は聞いていてよくわからないのですが、強請り事案で金を受け取った者が叔父に音楽を勉強させたと言うとギタリストが出てきてハードロックの速弾きを聴かせたり、あるいは強姦事案の被害者(実は誘惑した方)のくねくねしたギャル風が筋金入りだったりと、ディテールの方で笑わせます。

いよいよ「白墨の輪」のクライマックス。オープニングナンバーが再び演奏される中で裁判の両当事者が紹介され、舞台上には語り手から劇中人物へと戻ったスリカとグルーシェが再会。シモンも裁判に協力するが、既婚のグルーシェと一緒になれないことが受け入れられずにいる。ナテラも弁護士たちと共に入廷してグルーシェと一触即発になったとき、囚われの身になったアズダクが引っ立てられてきて、絞首台に登らされる。ところが、そこへアズダクを裁判官に任ずる旨の太公からの任命状が届いて形勢逆転。あらためて裁判が始まる。

ナテラ側第一弁護士の主張は「血は水より濃い」だが、スリカはミヘルが太守とナテラの実子ではなく、購入された卵子と精子の人工授精による子であることを暴露する。次にグルーシェはミヘルの養育にどれだけ苦労したかを訴えるが、対するナテラは子を奪われた母の悲哀を泣き真似混じりに熱弁。ところがこれに興奮した第二弁護士が、ミヘルを取り返さなければ太守の財産は相続できず弁護士費用も支払われないと口を滑らせ、彼らの目的が遺産にあることが明かされてしまう。にも関わらず、アズダクの挑発に興奮したグルーシェの心証は悪くなるばかり。

いったん休廷して並行審理している離婚裁判の当事者弁論を聴取した後、再びミヘル事案を開廷したアズダクは、グルーシェに「この子を金持ちにしたくはないのか」と厳しい問いを突きつける。この問いをきっかけに始まった歌の中で、グルーシェはミヘルを弱者を踏みつけにする子にはしたくないと訴え、ナテラはこの子に飢えることのない暮らしを与えたいと主張して譲らない。そこでアズダクは紐にくくられたミヘルを地面に置いて周囲に輪を描き、二人に紐を引かせることにした。ところが、ドラムロールと共に二人が引き出すとグルーシェは紐を握る手を緩めてしまう。グルーシェの懇願を聞いて行われた二度目の引き合いも同じようにしてグルーシェは負け、グルーシェは「引っ張ったら壊れてしまう、私にはできない」と叫ぶ。これを見たアズダクはミヘルをグルーシェのものとし、勝ち誇ってミヘルを高く抱え上げていたナテラは呆然。双方に町を出ることを勧告すると共に、財産を没収して公園を作ることを宣言する。さらに離婚裁判の判決文にアズダクは署名するが、それはグルーシェとユスプの離婚許可証になっていた。

こうして賑やかな音楽と共に人々はダンスパーティーに向かい、アズダクの姿は舞台後方へ消えてハッピーエンドになったと思われた刹那、培養器が光って驚いた一同が見つめると同時に培養器が割れる音が鳴り響き、一瞬で舞台上は暗転する。

  • 裁判の場面は本作全体のクライマックスですが、ナテラ側の二人の弁護士に個性があって魅力的。第一弁護士の主張は堂々として力強く、その弁論が客席を向いて行われるために観客はあたかも自分が法廷の傍聴人になったように感じます。一方、第二弁護士は興奮しやすい人間性らしく、その絶叫型でアクセントの強い話し方はまるで(というよりまさしく)野●秀樹が憑依したかのよう。演者は絶対に野田●樹を意識していると思うのですが、違う?
  • グルーシェとナテラが交互に力強く歌う《ミヘル》は、二人の応酬に聞き応えあり。しかし、プログラムにも書かれていたように、この後にエピローグで明かされるミヘルの未来が二人の願った通りにはならなかったという点で救いのない曲でもあります。
  • 白墨の輪は、シャウヴァが地面に線を引く動きに合わせて光の太線による輪ができていくのが不思議。これもその鮮やかさからすると下からの光によるものかと思いますが、仕掛けはわかりませんでした。

エピローグ。雨音が響く中、ぼんやりした正面からの光によって冒頭の2グループの姿が浮き上がり、歌手はアズダクが民衆の記憶の中に生き続けたと語る。しかし、この話には続きがあった。

ミヘルはグルーシェとシモンの子となって山で育ったが、いつしかシモンは戦争の記憶のために酒浸りになり、グルーシェも心を病んで家を出ていく。居場所を求めたミヘルは軍隊に入り、蜂起したカズベク残党の鎮圧に功績を上げて出世すると、独裁政治を行うようになる。ここまでの歌手の話を引き継いで、スリカはグルーシェの晩年を語る。グルーシェに認めてもらおうと訪れたミヘルを、グルーシェは非難。失望したミヘルは恐怖政治に傾斜し、戦争の種をたくさん蒔いて死んだ。その後、人間は大きな戦争を始め、アンドロイドたちを人間同様に作り替えようとしたが失敗して、死に絶えてしまった。

最後にもう一度語り手となった歌手が、自分たちも消えていく定めにあることを明らかにすると、レクイエム《人類を弔う》を皆でしめやかに歌ううちに、いったん客席の通路に並んだたくさんの演者の手によって客席後方から巨大な白い布が引き出され、そのまま舞台を覆い尽くす。その様子は終わらない戦争の中で白い埋葬布に包まれていた子供の姿を思い出させ、この人類を埋葬する白い布の上に揃った人々の姿は、やがて闇に埋もれていく。

あらかじめ原作がほぼ頭に入っており、エピローグの前(裁判)までは設定がいろいろ異なるとは言っても基本的には原作に忠実な舞台進行だったので、目の前の舞台で起きていることに追随するのは容易でしたが、本作オリジナルのこのエピローグには驚きました。原作が持つ、未来に向かって開かれていく明るいエンディングとは対照的に、人類はすでに滅び、アンドロイドもまもなく消えてしまうという閉じた未来。どうしてこのような救いのないエンディングにしたのか?周囲に観客がいないことをいいことに、後で考察できるようにとほとんど口述筆記状態になってしまいました。

翻って、時代設定を「第二次世界大戦末期の時代から振り返る遠い過去」から「遥か先の未来から振り返る今より少し先の未来」へと飛躍させた演出意図のヒントを、プログラムに掲載された演出家・瀬戸山美咲さんの文章から拾おうとしたのですが、これも自分にとっては容易ではありませんでした。一見悪なるものが負けて善なるものが勝つ話に思えるこの戯曲の「善きこと」として描かれる価値観(たとえば恋愛・結婚・家族といった「幸せ」)のもつ危うさへの懸念表明が演出家本人の人生と重ね合わせつつなされ、さらにテクノロジーが発達しても倫理観が追いつかない人間たちを、むしろ戦争によって価値観のゆり戻しが起きてしまった社会を、描きたいと思いましたと記されていても、どこか直截に受け止められない。

ただし、この文章のタイトル「人間を諦めないブレヒト戯曲」に添えられたいま生きている人間にしか、何かをすることはできないという言葉まで立ち戻れば、この作品を祝祭的なハッピーエンドにして、観客に「ああ、いいものを観た」というだけの気持ちで帰ってもらいたくはないという意図はひしひしと伝わってきます。よってあの救いのないエンディングは、今のままで行ったときにあり得る未来の一つの提示であり、それでいいのか?という問いの投げ掛けだったと思えば腑に落ちてきます。ナレーションによる具体的な描写も、あり得るその他の未来がある以上、観客の想像力の発揮を妨げているわけではなく、むしろ「本当にこんな未来になるのか?」と観客が疑問を持った時点で、演出家の意図は果たされているのかもしれません。

そして、このようにして「戦争を繰り返す人間に未来はあるのか」という問い掛けをすることさえできれば、このことは人類史のどこを切り取っても成り立つ普遍的な主題なので、あとは観客にその主題を届かせやすい道具立てを選択すればよく、よって今回の演出では(埃にまみれたコルホーズなどではなく)現代人の感性にビビッドに響くAIや人工授精といったワードを選んだということではないでしょうか。また、この主題の普遍性の裏返しとして、観客の側は現に目の前に存在する国際情勢に引き寄せて観る必要もなく、この観劇から受け取ったことをよりロングタームの中で熟成させていけばよいように思います。


演者は、いずれもすばらしい熱演でした。

グルーシェ役の木下晴香さんの伸びやかな声とそこにこめられる情感の豊かさ、特に吊り橋の場面での圧巻の演技に感動したことは上述のとおりです。また、シモン役の平間壮一とスリカ役の加藤梨里香さんがしっかりと舞台を支えていましたが、なによりsaraさん演じるナテラが発するオーラに目を見張りました。この傍若無人なナテラは、登場人物中で一番好きかも。

助演的な立ち位置では、ユスプほかを演じた怪優(?)武谷公雄とギャルキャラのルドヴィーカを演じた斎藤瑠希さん、●田的弁護士の森尾舞さんが個人的にはツボ。

そして、もちろん眞島秀和・一路真輝のお二人はさすがの存在感で、アズダクは戯曲の中からそのまま抜け出てきたかのようでしたし、一路真輝さんの気品と貫禄にはやはり脱帽です。

その他の演者も含め、多くの俳優が多彩な役柄をシームレスに演じながら舞台上に見事なアンサンブルを実現していましたが、これを支えるスリーピースバンドのタイトな演奏(特にベースがいい音!)と、そこで演奏された楽曲の見事さにも注意を促さないわけにはいきません。これから本作を見ようとする人には、いつもより少し早めに会場に赴いてプログラムを買い求め、本作の音楽に関する解説を開演時刻までに一通り読んでおくことをおすすめします。

なお、この日はカメラが入っていて収録されたようです。いずれ映像作品として見られる機会があるかもしれないので、上演期間中に本作を見逃した人は、ぜひそちらを観てほしいと思います。

配役

ガリンスクの女、グルーシェ・ヴァフナゼ 木下晴香
委員会代表、シモン・チャチャヴァ 平間壮一
ローザのトラクター運転手、太守夫人ナテラ sara
ローザのエンジニア、スリカ 加藤梨里香
ローザの女、姑、弁護士、ほか 森尾舞
ローザの負傷兵、豪族カズベク(反乱者)、修道士、ほか 西尾友樹
ローザの男、難民(実は太公)、ユスプ(グルーシェの夫)、ほか 武谷公雄
ガリンスクのメンバー、太守ゲオルギ・アヴァシュビリ、ラヴレンチー(グルーシェの兄)、ほか 辰巳智秋
ローザのメンバー、アニーコ(ラヴレンチーの妻)、ルドヴィーカ、ほか 斎藤瑠希
ガリンスクの若者、警官シャウヴァ、ほか 大久保祥太郎
ローザのメンバー、副官シャルヴァ、ほか 阿岐之将一
ガリンスクのメンバー、重騎兵、老人、甥、ほか 酒巻誉洋
ガリンスクのメンバー、重騎兵、子どもを弔う人、ほか 浜野まどか
歌手 一路真輝
ガリンスクの男、アズダク 眞島秀和

ミュージシャン

大林亮三 bass
大舘哲太 guitar
小牧佳那 drums

脚注

  1. ^原作では、宮殿の混乱にうろたえる人々の台詞として次の言葉が語られます。「貴族たちのしわざだ!ゆうべ首都で、太公とその領主たちに反対する貴族連中の会合があったのです」「貴族連中が大々的に蜂起したんだ。太公はもう逃げたって言うぜ。太公の領主たちはみんな処刑されるとさ」