下村観山展

Imp. 953

2026/04/01

東京国立近代美術館(竹橋)で「下村観山展」を見てきました。その開催趣旨をフライヤーから引用すると、次のとおりです。

日本画家・下村観山は紀伊徳川家に代々使えた能楽師の家に生まれ、橋本雅邦に学んだのち、東京美術学校に第一期生として入学しました。卒業後は同校で教鞭を執りましたが、校長の岡倉天心とともに辞職、日本美術院の設立に参加しました。出品作品点数約150件、関東では13年ぶりの開催となる本回顧展では、狩野派、やまと絵の筆法を習得して若くから頭角を現した観山が、2年間のイギリス留学を通して世界をまたにかけた幅広い視野を身につけ、画壇を牽引する存在へと成長する軌跡を示します。そこからは、盟友の横山大観、菱田春草らとともに明治という新時代にふさわしい絵画を切り拓こうとした観山のひたむきな姿が浮かび上がってきます。さらに、日本の古画や中国絵画の研究の成果、本人のルーツでもある能を主題とした絵画制作、時の政財界人とのサロンのようなネットワークにもスポットを当て、様々な角度から観山芸術の魅力に迫ります。これにより、明治から大正へと時代が移り変わる中で絵画のあり方に改めて向き合った観山が、自己実現のための芸術とはまた別の、作品を手に取る個人ひいては社会とともに生きる絵画を追い求めていったことが明らかになるでしょう。

この日は曇りのち雨の予報。地下鉄の九段下駅を降りてどんよりとした空の下に精一杯咲く桜を愛で、ひと月ほど前に訪れたばかりの日本武道館の前を通って東京国立近代美術館に到着しました。

展示は「第1部 画業をたどる―生涯と芸術」と「第2部 制作を紐解く―時代と社会」の2部に分かれており、それぞれがいくつかの章に分かれています。第1部は生涯を4つに区切って年代順に画業を辿り、第2部は展覧会とは別の目的で作られた作品を中心に3つのテーマを設定して創作に対する観山の取組みを紹介する構成です。

第1部 第1章 若き日の観山

この展覧会まで知らなかったことですが、下村家は紀伊徳川家に代々仕えてきた小鼓方能楽師として江戸に常駐していた家柄で、幕藩体制の崩壊と共にいったん和歌山に戻っていた1873年に観山(本名は晴三郎)が生まれたということです。しかし観山8歳のときに一家で東京に戻ると観山は絵を習い始めたのですが、9歳頃から狩野芳崖、その後橋本雅邦に師事し、16歳で東京美術学校の第一期生として入学を認められたというからすごい。

展示の最初の方には観山がまだ東京美術学校に入る前の作品や、入学後に課題として取り組んだ写生が並んでおり、最も早い時期の作品はなんと10-11歳のときのものですが、その確かな筆遣いには驚くばかりです。

この《熊野観花》(1894年)は東京美術学校の卒業制作で、謡曲「熊野ゆや」に題材をとり、中央の白い狩衣の貴人が平宗盛、左の牛車を降りようとしている女性が熊野です。絵巻物の研究の成果を発揮して、横長の画面の中に多彩な人々を緻密に描き込み、色遣いも鮮やかでいて落ち着きがあって魅力的。この絵の前で足を止めてじっと見入っている人が少なくありませんでしたが、この後にはさらに仏画や風俗画、風景画など多様な題材をさまざまな技法で描く作品群が続き、観山の修行時代の意欲的な様子が見て取れました。

第1部 第2章 西洋を識る

観山は文部省から画学研究のため2年間のイギリス留学を命じられ、1902年4月にロンドンに赴きました。図録の記すところによれば、観山は西洋画と比較して日本画が色彩の弱さや構成力の不足といった欠点を有しており、日本画と親和性を持つと考えられた水彩画の本場であるイギリスでの研究によってこうした欠点を克服することが企図されていたそうです。

会場で目を引いたのは英国留学任命書で、そこには畫学研究ノ為満二箇年英国ヘ留學ヲ命ズとあるほか、留學満期後六箇月間佛國獨國伊國ヲ巡歴スヘシとあって、実に意欲的な留学プランが組まれていたことがわかります。辞令や旅券、旅費の見積書などもあって興味深く眺めましたが、旅の安全の拠り所となる旅券(パスポート)には、この旅が公用であり、通路故障なく旅行できるよう必要な保護扶助を関係官署に求める旨が日英仏三カ国語で記されていました。

かくしてロンドンに赴いた観山は当地で絵画研究に勤しみ、油彩の原画を水性絵具で写しながら西洋絵画の表現を自分のものにしていきます。この日展示されていたのはルネサンス期のラファエロの模写でしたが、図録を見るとラファエル前派のエヴァレット・ミレイの模写もありましたから、観山がここでも研究対象を幅広く選んでいることがわかります。そして、そうした滞欧中の様子を師である橋本雅邦に知らせる葉書を見ると、ようやく生活に慣れ美術館巡りを始めて絵画の素晴らしさに感激していること、下宿では和服で過ごしていること、日本美術に造詣の深いアーサー・モリソンの知遇を得て親切にしてもらっていることなどが巧みなイラストと共に細々と記されていて、観山のまめな人柄が窺えます。なお、このモリソンの手元に残された観山の作品数点も今回展示されており、その中には現在大英博物館の所蔵品になっている静謐な《ディオゲネス》(撮影不可)がひときわ異彩を放っていました。

第1部 第3章 飛躍の時代

観山の帰国の翌1906年、岡倉天心は経営不振に陥った日本美術院を茨城県の五浦に移し、天心、観山、横山大観、菱田春草、木村武山がこの地で研鑽と制作に励むことになります。この五浦時代は1913年の天心死去をもって終焉を迎えるのですが、この章ではこの時期に制作された作品が展示されます。

1907年の第1回文部省美術展覧会(文展)に出品されたこの《木の間の秋》は、掛け値なしにすばらしい。五浦の木立に着想を得たというこの作品の前に立つと、背景の金のグラデーションや樹木の遠近の描き分け(近いほど色濃い)によって、自分が森の中にあってこの光景を目の当たりにしているような気になります。さらに、持参の単眼鏡で細部を見てみると「神は細部に宿る」という言葉を思い出すくらい緻密な描写に圧倒されます。

たとえば、この解説に記されている右の屏風の左上には、右上から左下に向けて金泥が刷かれており、差し込む陽光を表すというところ。肉眼でぱっと見ただけではこのことに気付けないのですが、単眼鏡で覗いてこれを確かめたときには息を飲みました。

この《唐茄子畑》(1911年)もすごい。《木の間の秋》とは対照的に余白を生かした描き方になっていますが、支柱とこれを繋ぐ紐の結び目のリアルさには目を見張りますし、カボチャのつるや葉、実の微細な表現は写実を通り越しているようです。

そしてこの絵のポイントは、まさかのカラスの鼻毛。あとで調べてみると、本来は鼻の中から毛が伸びるのではなく鼻孔を覆うように毛が伸びているということのようなのですが、この絵の前に立った人は例外なくカラスの鼻毛を見つけようと目を凝らしたり単眼鏡を構えるので、なにやらおかしな光景になってしまっています。

これまた金屏風の上に、今度は余白を生かした左隻と枝葉で画面を埋め尽くす右隻の対比が大胆な《小倉山》(1909年)。小倉山峰のもみじ葉心あらば いまひとたびの御幸待たなむの歌意を主題とし、右隻に描かれている人物は読み人の藤原忠平(貞信公)です。

第1部 第4章 画壇の牽引者として

岡倉天心の一周忌当日に横山大観と共に日本美術院を再興した観山の、死没までの作品が展示されます。この再興日本美術院の第2回展に出品されたのが《弱法師》(1915年 / 重文)です。

この大作《弱法師》(撮影不可 / 展示期間は4月12日まで)は能「弱法師」に取材した作品で、盲目の俊徳丸が夕日を拝み極楽浄土に近づく日想観を行う場面。個性的な顔立ちの俊徳丸が笑みを浮かべているのは、目が見えていた頃に親しんだ難波の浦の景色を思い出したためで、その表情を単眼鏡で見てみると細かい筆の線で描かれる眉毛やまつ毛が実に柔らかそうですし、水衣の下に垣間見えている着付のブルーのグラデーションも見事。また梅の花の一つ一つも細かく描き込まれていて、大づくりな構図なのに緻密な印象を与えます。この作品は今回の展示の白眉としてフライヤーの表紙を飾っており、また国立能楽堂ではこの「下村観山展」とのタイアップで4月17日に「弱法師」が上演される(シテは観世流・岡庭祥大師)ことになっています。

この章に配置された作品の中では、この《魚籃観音》(1928年)も見逃せません。求婚の声を掛けた男性たちに一晩で経典を暗誦できるようになれば応じると告げて夫を選んだという説話の主ですが、その顔立ちははっきりとダ・ヴィンチの《モナ・リザ》を手本としています。解説によればもととなる西洋絵画がここまで明確に分かる作品は、観山の生涯を通じても珍しく、新たな表現への挑戦を示しているようで、この観音の顔立ちに加えその装身具の細かさや左の男の筋肉の表現などが西洋絵画由来の立体感をもたらしているということですが、正直に言うとちょっと不気味ですらあります。

第2部 制作を紐解く

第2部では、「第1章 何をどう描いたか」で日本の古画やそのルーツである中国絵画の古典的な画題・図像(たとえば「寒山拾得」)を用いた作品における観山の工夫に注目し、「第3章 作品の生きる場所、作品がつなぐもの」では制作依頼を受けて依頼主にふさわしい画題・モティーフを採用した例や渋沢栄一ほかの実業界・政財界の人々が結成した支援会である観山会での交流を取り上げていましたが、ここでは「第2章 なぜこれを描いたか」のうち能を主題とした作品を紹介することにします。

上述のとおり下村家は小鼓方能楽師の家だったので、観山にとっての能は自分のルーツ。下の写真は1913年に猿楽町にて改築された宝生会能楽堂の模様で、鏡板に描かれた松は観山の筆になるものです。また観山の長兄・下村清時が打った面(小面)が展示されており、なかなかの美人さんでした。

絵画の方は、「大原御幸」「養老」「弱法師」「恋重荷」にまつわる作品が展示されていました。中でも「恋重荷」に基づく《白菊翁》(1920年)に描かれる山科荘司の姿は一見の価値あり。菊の根元に水を遣る穏やかな表情からその後の悲劇を想像することは難しく、それだけにこの曲のあらすじを知る者には奥深い業のようなものが感じられます。なお、第1部第1章の最初に掲載した写真の左の絵は『史記』に登場する「東方朔」を描いたものですが、この人物をシテとする同名の謡曲が存在します。

さらに謡曲「大原御幸」に「笠卒塔婆(重衡)」の要素を加えて描かれた絵巻仕立の《大原御幸》(1908年)も展示されていました。繊細な線も彩色もこの上なく美しいこの絵巻は、この日(前期)の展示では桜の木下の卒塔婆から後白河法皇が建礼門院の庵を訪れようとするところまでが示されており、後期展示では後白河法皇と建礼門院の対面の場面が展示されるようです。

このように古典的な画題を大事にしながらダイナミックな作品を制作し続けていた観山でしたが、最後に展示されていたのは、観山の絶筆であり位置付けとしては第一部のラストとなる《竹の子》(1930年)でした。これは京都の知人から送られた筍を写生した力強い作品ですが、図録の解説によれば観山はこの年の3月に食道癌の診断を受けており、本作を完成させた後、急激に体調が悪化して同年5月10日に亡くなったということです(享年57)。共に日本美術院を再興した横山大観が80台の半ばまで制作を続けたことを考えると観山の死はあまりにも早過ぎ、せめてあと10年生きていたらどんな作品が生み出されていただろうかと思わないわけにはいきませんでした。

「下村観山展」を見終えた後に、おまけで「MOMAT コレクション」を流し見ることにしました。

おっといきなり川合玉堂《行く春》の大画面。玉堂のこれほどの大作を見るのは初めてかも?

まあしかし、コレクションの多様さには驚きます。ほのぼのしたアンリ・ルソーもあればド派手な龍の絵もあり、カンディンスキーや松本竣介も。絵画ばかりでなく彫刻やインスタレーションや写真もあって、砂丘に集う家族をモノクロームで撮影した植田正治の乾いたユーモアに久しぶりに触れたかと思えば、トラディショナルな軸装や屏風の日本画コーナーがあったり。

そしておなじみ麗子様を拝んだあとに、新収蔵作品だというメダルド・ロッソの彫刻《Ecce Puer(この少年を見よ)》に呆然とする……といった具合に、自分の美術に関する知識を総動員しても太刀打ちできない世界が広がっていました。東京国立近代美術館、恐るべし。