成上り / 海士

2021/11/19

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「成上り」と能「海士」。

今回は「演出の様々な形」と副題がつき、今月と来月とで異なる流儀・小書による「成上り」と「海人」(観世流は「海士」)を見比べることができるという趣向です。同様の趣向では一昨年の11月12月にも狂言「鐘の音」と能「橋弁慶」でその違いを興味深く観たところでした。

成上り

主と共に寺籠りに出掛けた太郎冠者が参籠する主から預かった太刀を寝ている間にすっぱに盗られてしまい、太刀が成り上がって違うものになったと言い訳をして叱られる話。これまで和泉流では野村扇丞師野村萬師の太郎冠者、大蔵流では大藏教義師の太郎冠者で観ています。流儀による違いの大きな点は、大蔵流では太郎冠者が主に叱られるところで終わるのに対し和泉流ではその後にすっぱを捕らえようとして失敗するくだりが追加される点にありますが、細部では参籠する寺が清水寺(大)か鞍馬寺(和)か、すり替えられた物が竹杖(大)か青竹(和)かといった点も異なります。

また、同じ大蔵流でも前回は嫁→姑、子犬→親犬、渋柿→熟柿、山芋→鰻、田辺の別当のくち縄太刀と徐々に荒唐無稽になっていったのに対し、今回は最初に山芋→鰻、懐中の雀→蛤と不可思議な話を持ち出して主に合点がいかぬと言わせてから嫁→姑、子犬→親犬、渋柿→熟柿と落ち着けておいて一転、田辺の別当を持ち出し主の太刀につなげるという流れ。それぞれに考えあっての順番だと思いますので、その発想を知りたいものです。

ともあれ、二人揃って仏様の前に座り声高に「あ〜ら、ありがたや」と繰り返す所作(最初は広げた扇をひらひらと、二度目は両手で推し戴くように)の様式美の中の面白さ、寝入っている太郎冠者(茂山茂師)の背後から太刀を抜き取り竹杖にすり替えるすっぱ(茂山あきら師)の飄々とした軽み、すり替えられたことに気付いて驚きつつすぐに気持ちを切り替えて主(茂山千之丞師)を言いくるめようとする太郎冠者のしたたかさといったおかしみが楽しい曲でしたが、舞台上で叱リ留となった後、二人の演者がすべての人格を捨てて静々と橋掛リを下がっていく姿に、人の心の深淵を覗き込み舞台上に取り出して見せる狂言の深みを見せつけられるようでした。

海士

金春権守が演じた「海士」に世阿弥が舞を付け足すなどの改作を行ったものとされる人気曲で、分類としては切能です。シテが珠を奪い返す様子を語り舞う「玉之段」は仕舞としても何度か観ていますが、一曲を通して観るのは2014年に故・浅見真州師のシテで観て以来七年ぶり。この日のシテは観世銕之丞師です。

舞台の進行は2014年のレポートに詳しく記しているのでここでは繰り返しませんが、本公演の企画趣旨に即してシテの出立を記すと次のようでした。

  • 前シテ/海士の出立は、縫箔腰巻の裳着胴姿で面は若曲見(井関作)。海に入ることを生業とする勤労婦人としての性格をより強く示すもの。
  • 後シテ/龍女の出立は、龍戴に白銀の舞衣、紫地(光の加減で茶にも見える)に金の箔の大口。面は泥眼(近江作)。神格が加わりつつも女性らしさが残る形。

観世銕之丞師の姿を舞台上で観る機会は、後見や地頭、あるいは仕舞ではいくらでもありましたが、本格的なシテとしての演能は2015年の「水無月祓」以来です。そして今回もまた、銕之丞師に圧倒されることになりました。

まず〔一声〕のうちに揚幕が上がりそこに立ち現れる前シテの姿からして既に不思議の気配を漂わせ、〈一セイ〉海士の刈る、藻に栖む虫にあらねども、我から濡らす、袂かなを謡う唯一無二の深い声色にすぐさま惹き込まれました。また、ワキ/房前の従者から求められて面向不背の珠を取り返す様子を見せようとする場面では、居住まいを正し間をおいてその時海士人申すやうと語り出したところから時制も人格も鮮やかに切り替わる魔法のような瞬間を舞台上に生じ、クライマックスとなる「玉之段」では舞台上に龍宮を現出させて、シテ自身の悲痛なまでの恐れ、子や夫への思慕、死地に飛び込む緊迫感、追い詰められて自らの体を剣(手にした鎌)で掻き切る刹那の覚悟、鎌を捨て床に座して紐を引き地上に合図を送る際の命の火が尽きかけようとする様子がシームレスにつながって一気呵成。かたや海士の姿に戻って自らの正体を明かした後、我が子房前の前に背を丸めて手紙(扇)を手渡す姿や中入に際し二ノ松から遠く房前大臣を振り返り見て数歩後ろずさった後に膝を突きシオル姿に、母の慈愛を滲み出させました。

一方、後場において龍女の姿となったシテは、正中に下居して経巻を開き地謡との掛合いでこれを読んだ後、押し戴きあら有難の御経やなと感謝してから〔早舞〕を舞いますが、ここでも〔早舞〕に先立って常座に位置を移し左袖で面を隠して子方を見やる場面があり、そこに成仏の喜びだけでなく我が子との別れを思う気持ちを感じさせます。しかし気持ちを振り切って〔早舞〕になれば、舞台上から橋掛リの三ノ松までを広く用いて鮮やかな舞が舞われ、最後に地謡が讃州志度寺を讃える詞章を謡いだすと舞台上は志度寺になり、見所の観客は境内に集う衆生と化して、法悦のうちにシテが踏む留拍子を聞いていました。

なお、常の演出では〔早舞〕の最初のところで房前に渡す経巻を、今回の小書《懐中之舞》によりシテは懐に入れたまま舞い〔早舞〕の最後で房前に渡して房前がこれを開くという流れになりますが、プログラムの解説によればこれは舞の一挙手一投足が成仏への過程を示しているような印象を生み海士を成仏に至らしめた法華経の力に焦点を当て、法華八講会の意義を強調する演出とのこと。このように小書の演出意図を深く考えることがこれまでできていませんでしたので、ためになる解説でした。

来月の金剛流の小書《変成男子》も、その名の通り龍女が男子に変じて観世音菩薩の浄土に転生したとする法華経の教義をいっそう具体化したものと思われますが、実際の舞台を観て自分なりに掘り下げて考えてみたいものです。

配役

狂言大蔵流 成上り シテ/太郎冠者 茂山茂
アド/主 茂山千之丞
アド/すっぱ 茂山あきら
観世流 海士
懐中之舞
前シテ/海士 観世銕之丞
後シテ/龍女
子方/房前大臣 谷本康介
ワキ/房前の従者 福王茂十郎
ワキツレ/従者 矢野昌平
ワキツレ/従者 村瀬提
アイ/浦人 茂山千五郎
藤田次郎
小鼓 幸正昭
大鼓 佃良勝
太鼓 小寺佐七
主後見 清水寛二
地頭 浅井文義

あらすじ

成上り

→〔こちら

海士

→〔こちら

ロビーに置かれていた『千駄ヶ谷だより』では、今回の「海人(海士)」の装束のパターン解説が写真を交えて詳細に説明されていました。以下、その一部を引用します。

上は前場で片手に鎌、片手に海松藻を持って現れる海女の姿。左端は水衣を肩上ゲにして仕事着であることを示しており、中は唐織を着流し片袖を脱いでこれも動きやすい恰好であることを示すもの、右端は縫箔を腰巻にし上半身を着付のみとする裳着胴姿でさらに露わな形(裸の暗喩にも)。今回の出立はこの右端のパターンでした。

ついで後場で龍女と変じた海女の霊ですが、左端は霊威ある女性面である泥眼に黒垂をつけ龍戴を戴く姿で、今回の出立はこれ。中は龍神としての印象をより強めて面は鬼に近い橋姫、蔓は黒頭としていますが、緋大口に舞衣という装束が女性らしさを残しており、右端に至って巨大な龍戴、厚板壺折に半切となって龍神に変じた姿。この龍神の位が高くなると蔓は白頭、面は悪尉(老体の強い神)、装束も白づくめに変わるのだそうです。