京都の社寺巡り〔伏見・東山・下鴨・北野〕

これまで11月を中心とする晩秋には社寺巡りに行くことが通例と化していたのですが、2019年は酒造所巡り、2020年はCOVID-19の影響で旅行自粛となり、今回の旅は2018年の厳島神社参詣以来3年ぶりの社寺巡りとなりました。その行き先は定番の京都、それも混雑必至の紅葉の時期ですが、インバウンド客はまだ戻ってきていないだろうという期待もあってのセレクトでした。

2021/11/20

品川を7時に発って京都駅でJR奈良線に乗り換え、稲荷駅で下車。この日の最初の目的地は千本鳥居で有名な伏見稲荷大社で、私にとってはこれが同社への初参詣です。

伏見稲荷大社

京都駅を出発したJR奈良線は昔懐かしいラッシュアワー並の大混雑でしたが、多くの乗客が東福寺で降り、ついで残りの乗客の多くが稲荷駅で下車しました。東福寺は明日行くことにしているところですから、結局のところ観光客が考えることは皆同じというわけです。

伏見稲荷大社は全国の「お稲荷さん」の元締め(総本宮)。祭神・稲荷大神様の鎮座を和銅4年(711年)2月初午の日のこととしていますが、応仁の乱によって全山焼亡し、現在の社殿はその後の勧進によるもので、大鳥居の向こうに聳える楼門〈重文〉は豊臣秀吉が寄進したものだそうです。

楼門をくぐると丹塗りの美しい社殿が並んでいますが、山麓に遷座したのは室町時代のことで、本来は霊峰稲荷山の三つの峰を崇拝の対象としていたもの。境内案内図も左は山麓中心、右は山上を巡る参拝路を描いています。

本来なら拝殿・本殿で祈りを捧げるべきところですが、ついそそくさとその左奥の階段を登って千本鳥居へと急いでしまいました。

当社を特徴づける千本鳥居は、江戸時代に商売繁盛を願う商人が結願の御礼として赤い鳥居を奉納する習慣が生まれたことによるものだそう。この間隔では1,000本ではきかないだろうと思いましたが、一説には約10,000基あるとされています。

山中には鳥居の回廊のところどころに公式(?)の社や奉拝所があるだけでなく、これでもかという数の祠(御塚)やミニ鳥居も納められていて庶民の信仰の力を実感させられます。

途中の休憩ポイントである四ツ辻から時計回りの山上周回コースに入っても尽きることなく続く鳥居の下を潜り続けていると……。

長者社神蹟(御劔社)の奥には、謡曲「小鍛冶」で三条宗近が名刀小狐丸を鍛え上げたという由緒のある井戸がひっそりとそこにありました。

ようやく到達したここが上社神蹟(一ノ峰)です。

階段を登ってみると、中央の神蹟の周りに小さい祠(御塚)がびっしりと建ち並び、小さい鳥居で飾られていました。

上社神蹟を最高点として参道は下りに変わり、その途中に中社神蹟(二ノ峰)。

さらに下社神蹟(三ノ峰)が続いて、これらのいずれにもカオスのように祠(御塚)がとぐろを巻いていました。なお、これら三つの峰はかつて円墳であったことが確認されているそうです。

四ツ辻に戻り、京都盆地の南方の景観を見渡してほっと一息。少し下って三ツ辻からは往路とは異なる道を辿り、さらに数えきれないほどの社を横目に見ながら下界へと戻りましたが、唯一、足腰に御利益があるという腰神不動神社だけはきちんとお参りをしておきました。

それにしても伏見稲荷大社は凄いところでした。実は、実際に歩いてみるまで観光情報でよく見掛ける鳥居の連なりはごく一部の区間に過ぎないのだろうと思っていたのですが、とんでもない。ここまで徹底して鳥居が連なっていたとは驚きです。その驚きのために千本鳥居巡回が信仰を離れて観光に偏ってしまった感があるのが少々残念で、いずれ機会を作って伏見稲荷大社を再訪し、しっかり時間をかけて各所に祈りを捧げつつ回り直したいものだと思っています。

伏見と言えば酒どころ。少し移動して伏見の名酒をいただくことにしました。

まずは「月桂冠大倉記念館」を訪ね、酒造工程の学習をしてから「きき酒処」で月桂冠の各種銘柄を試飲し、気に入ったお酒(酒香房大吟醸しぼりたて生原酒)をゲット。この記念館限定でアルコール度数が18.5度と最強ですが、フレッシュな風味がすてきな一品です。

そして記念館から徒歩10分弱の「伏水酒蔵小路」で「十八蔵のきき酒セット」を賞味しました。全部飲んでだいたい2合だそうですからさほどの量ではないはずなのですが、飲み進めるにつれて味の違いがわからなくなり、最後はどれも「おいしい」の一言で片付けざるを得なくなったことを白状しておきます。

2021/11/21

この日はひたすら紅葉を堪能する一日。まずは東福寺に赴き、徐々に北へ移動するプランとしています。

東福寺

京都の紅葉と言えばド定番の東福寺。それでも前回ここに来たのは2002年、すなわち19年前のことになります。公式サイトに記載された縁起によれば、東福寺は摂政九條道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したもので、嘉禎2年(1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成したのだそうです。

これまた定番、臥龍橋から通天橋を見通すの図。ここには洗玉潤と呼ばれる渓谷があり、その周囲を埋め尽くす紅葉がこの季節の東福寺の見どころとなります。

ひと口に紅葉と言ってもさまざまな表情があるもの。それらを丹念に追っていたらいくら時間があっても足りません。

ひとしきり紅に染まったら、方丈の「八相の庭」を拝見して心を落ち着けて、ついで境内の大建築物である法堂と三門を見ることにしました。

しかし、どちらも拝観料が1,000円と高い。幸い(?)法堂の方は本尊釈迦如来立像や天井の雲龍図を入口からチラ見することができたので遠く手を合わせるだけにとどめ、室町初期再建の三門〈国宝〉に登ることにしました。

高さ22mの立派な三門の横に付けられた驚くほど急勾配の階段をぐんぐん登って楼上に上がると、そこには宝冠釈迦如来坐像、善財童子立像、月蓋長者立像、十六羅漢像が並んでいます。天井や梁には極彩色の絵が残っており、ことに天井には緑と朱の羽根を広げた天人の姿が生き生きと描かれていました。

清水寺

東福寺からバスで移動して清水寺へ。ここも何度も来ているはずですが、それでも前回来たのは2009年のことです。

謡曲「田村」に描かれる坂上田村麻呂も登場人物の一人とする創建説話を持つ清水寺は、複雑な地形の中に建てられた舞台を中心とする立体的な伽藍が面白く、四季を通じて人気の寺ですが、紅葉の季節の眺めもやはり見事です。

紅葉の海に漕ぎ出す船のようにも見える舞台の威容。観光客が競ってこの構図の写真を撮っていましたが、「定番」には定番とされるだけの理由があるという好例です。

さらにいろいろなポイントから撮った紅葉の清水寺の点描。ただ、この頃から曇り空になって光の効果が得られなくなったのが少々残念です。

高台寺

清水坂→産寧坂→二年坂と歩いて高台寺。言わずと知れた「ねねの寺」、すなわち豊臣秀吉の北政所が秀吉の冥福を祈るために建立(慶長10年(1605年))した寺院であり、秀吉と北政所の霊廟でもあります。ここに入るのも初めて。

まずは、伏見城から化粧御殿と前庭を移して北政所が晩年を過ごした場所にある圓徳院へ。ここが高台寺の塔頭として寺院となったのは北政所没後9年目の寛永9年(1632年)だそうです。長屋門から入って拝観料を支払い、「圓徳」の扁額が掲げられた唐門をくぐると右手に「秀吉公好み手水鉢」。

まずは方丈の南庭。落ち着いた雰囲気が好ましい、清潔な庭という印象です。

絢爛豪華な襖絵は近年の作である「雪月花」と「松竹梅」。実は長谷川等伯が住持不在の折に無理やり描いたという逸話がある障壁画がここでの鑑賞ポイントだったのですが、予習不足で認識することができませんでした。次回への宿題です。

渡り廊下を歩いて北書院に入ると、これが伏見城から移した庭の姿を今にとどめているという北庭(部分)で、伏見城にあったときは池泉回遊式だったものを枯山水に変更してはいますが、池の深さや岩の大きさ・多さは豪快。これが桃山時代の作庭の特徴なのだそう。

圓徳院を辞して、すぐ近くにある高台寺に移りました。清水寺と同じくここにも2009年に来ています。東山の斜面を活かした境内はこじんまりとしていながら変化に富み、何度来ても飽きることがありません。

紅葉の加減もいい感じ。こうしてみるとがらんとしているようですが、通行止めになっている下の臥龍廊はともかく、上の開山堂の入口を中から見た構図は、実は人が写らないタイミングをつかまえるのに四苦八苦した末の写真です。ただ、まだ16時前だというのにどんどん暗くなってきてしまいました。

秀吉と北政所を祀る霊屋おたまやで手を合わせてさらに斜面を登ると傘亭(安閑窟)〈重文〉。

そして傘亭と廊下でつながっている2階建てのこちらは時雨亭〈重文〉。いずれも伏見城にあった茶室を移築したものですが、廊下はこの地に移したときに付加されたものだそうです。いずれも千利休好みとされるそうですが、待庵の閉鎖空間(実物は未見ですが模型でその狭さは実感したことがあります)と比べるとあまりの違いに驚きます。

禅林寺(永観堂)

夜を待って再び出動。今度は永観堂での紅葉ライトアップです。

こうなるともう完全に観光モード。祈りもへったくれも……と言うなかれ、阿弥陀堂の「みかえり阿弥陀」にはきちんと手を合わせてきました。この阿弥陀様はお顔をぐいっと左に向けて肩越しに振り返っている不思議な姿をしておられますが、その由来は寺のウェブサイトによれば次のようなものです。

永保2年(1082)、永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声を掛けられた。永観はその尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えるといわれている。

ここで言う永観とは永観ようかん律師(1033-1111)のことで、もと真言宗の寺院として9世紀に空海の高弟である真紹僧都により建立されたこの寺を念仏(浄土教)の寺にした禅林寺中興の祖です。

それはさておき、夜の紅葉を眺めるのは初めての体験でしたが、確かにこれは美しい。遠く眺めてよし、近くに寄ってよし。

極楽橋を渡って放生池の水鏡を写しとるこの一枚が、今回の旅のベストショットになりました。

2021/11/22

旅の三日目は、朝からはっきりと雨。この日は北野天満宮に行くことにしていますが、その前に出町柳へ。

その目的は出町ふたばと緑寿庵清水ですが、出町ふたばは例によって大層な行列になっていました。それでもなんとかゲットしたのは栗水無月、名代豆餅、黒豆大福、丹波栗餅。いわゆる水無月は能「水無月祓」にも描かれる夏越の大祓のときにいただくものなので季節外れのように思えますが、この栗が乗った水無月はいわば秋味バージョンということでしょうか。

緑寿庵清水では実家へのお土産の他に、自分たち用に日本酒の金平糖なる摩訶不思議な一品を購入しました。なんでも通常は店頭在庫がすぐになくなるものですが、この日はその場で買えるので是非にと勧められたのでした。

下鴨神社

さて、こうして書くと自分が出町ふたばの大行列を我慢して栗水無月ほかを獲得したように見えてしまいますが、実は出町ふたばでの順番待ちは相方に任せて自分はその間に近くの下鴨神社に参詣していたのでした。申し訳なし。

今から30年近く前に京都に住んでいた頃に散策した、懐かしい糺の森。しっとりと雨に濡れて得も言われぬ風情があります。

巨木に囲まれた参道を進んで南口鳥居から楼門へと進み、中門をくぐると言社ことしゃ。自分の干支である亥年の守護社にお参りし、ついで本殿にも参拝しました。

中門を出て今度は右手に進むと、そこには御手洗川みたらしがわの清流。川をまたぐように設置されている橋殿〈重文〉や輪橋そりはし、光琳の梅。水源をなすように建つ井上社(御手洗社)では立秋の前夜に矢取りの神事が行われるそうですが、この神事は下鴨神社の御祭神玉依媛命が賀茂川で川遊びをしているところに流れ着いた一本の矢を持ち帰ったところ懐妊して賀茂別雷神を生んだという故事にちなむもので、こうした謂れは能「賀茂」の中で前シテ/里女が語る通りです。ただ、普段は水が流れていない御手洗川に土用が近づくと滾々と水が湧き流れ、その水泡をかたどったのがみたらし団子の由来であるということは初めて知りました。

北野天満宮

バスに乗って今出川通を東から西へと大移動。今回の旅の最後の目的地である北野天満宮に向かいます。

石鳥居をくぐって参道を進み、楼門から境内に入ります。飛び石連休のはざまの平日、しかも雨とあって観光客は少ないはずと踏んでいたのですが、それでもツアーの団体客がちらほら。

こちらは全国の天満宮の総本社で、御祭神は言うまでもなく菅原道真です。道真公を登場人物とする謡曲としては「雷電」と「菅丞相」を観ていますが、いずれも暴悪な菅原道真の怨霊が転じて天神様となる由来を描く曲であるので、この北野天満宮が舞台となっているわけではありません。

三光門の向こう、本殿の前に位置する拝殿はその前の一角を回廊に囲ませ、向かって左に梅、右に松を配して端正な佇まい。これらの社殿〈国宝〉は豊臣秀吉の遺命に基づき豊臣秀頼が慶長12年(1607年)に造営したものです。そして右を見ると、そこには「渡邊綱の燈籠」なるものがありました。

渡辺綱は源頼光の四天王の一人で、大江山の酒呑童子退治や一条戻り橋での鬼退治が有名ですが、この燈籠は一条戻り橋で鬼に捉えられた渡辺綱が北野天満宮の上空で鬼の片腕を切り落として難を逃れ、北野天満宮のおかげに感謝して寄進したものだそう。「鬼切丸」として知られるその刀は御朱印にもなっていましたが、謡曲「羅生門」では羅生門に巣食う鬼の退治でも活躍しています。

さて、鬼を退治するのは渡辺綱に任せてこちらは紅葉狩り。かつての豊臣秀吉による京都改造の名残りであるお土居跡の上と西麓を流れる紙屋川沿いに広がるもみじ苑に入りました。こちらから眺める本殿の姿ももちろん立派ですが、道の上に枝垂れかかる紅葉の見事さ・美しさには目も心も奪われました。

こうして身も心も紅に染まったところで久しぶりの京都訪問を終えて、午後の比較的早い時刻に帰京の途に就きました。COVID-19の影響で制限されていた行動の範囲が着実に広がってきていることに感謝しつつ、帰路の新幹線の中では出町ふたばで手に入れてもらった栗水無月や豆餅に舌鼓を打ちました。