超 国宝-祈りのかがやき-

2025/05/27

奈良国立博物館で「超 国宝-祈りのかがやき-」。同博物館の公式サイトにおける紹介文は次のとおりです。

奈良国立博物館(奈良博)は明治28年(1895)4月29日に開館(当時は帝国奈良博物館)して以来、令和7年(2025)をもって130周年を迎えます。これを記念し、このたび奈良国立博物館ではこれまでで最大規模となる国宝展を開催します。

(中略)

この特別展では、奈良博や奈良の歴史に関わりの深い国宝を中心に、未来の国宝ともいうべき重要作品など、日本が世界に誇る名品の数々をご紹介します。国宝約110件、重要文化財約20件を含む約140件の仏教・神道美術を展示します。130年にわたる歴史を超え、国宝を生み出した先人たちの思いを超えて、文化の灯を次の時代につなぐため、奈良博が踏み出す新たな一歩をご覧ください。

この展覧会のあらましは上掲の紹介文に尽きていますが、あえて付け加えるなら、奈良博は他の国立博物館と異なり「仏教美術及び奈良を中心とした文化財」についての調査研究・展示・収集を使命としており、そのため本展覧会も仏教・神道美術の展示にフォーカスすることによって、同時期に開催されている京都国立博物館「特別展 日本、美のるつぼ―異文化交流の軌跡―」や大阪市立博物館「日本国宝展」の網羅性と一線を画していることが挙げられます。

本覧会展の章立ては、次のとおりです。

  1. 南都の大寺
  2. 奈良博誕生
  3. 釈迦を慕う
  4. 美麗なる仏の世界
  5. 神々の至宝
  6. 写経の美と名僧の墨蹟
  7. 未来への祈り

この日は平日、それも午前中なら空いているだろうと思っていたのですが、実際には奈良博の前に長蛇の列。それでも事前にチケットをネット購入していたので入場自体はスムーズでしたが、展示室の中は芋の子を洗うような状態で、一つ一つじっくりと見ていくということはとてもできません。もっとも展示されている国宝群の多くはこれまでに見たことがありますから、これらが一堂に会していること自体を愛でながら足早に見て回り、いくつかのあらかじめ決めておいた国宝に絞って丹念に鑑賞する作戦としました。

◎以下、特にことわりがない限り、ここで紹介する出展品は国宝です。

南都の大寺

明治維新による急激な社会変動の中、仏像をはじめとする多くの文化財は散逸の危機に瀕しました。奈良博の歴史はこうした文化財の保護とともにあったといえるでしょう。一方で奈良博は、南都(奈良)の名だたる大寺の協力によって育てられ、多くの発見や感動を生みだしてきました。本章では特に奈良博の歴史と関係の深い南都の大寺に伝えられた仏像を中心にご紹介します。

奈良および京都に国立博物館が開設された目的は、旧都に数多くある文化財の寄託を受けてこれを官費で修理し、寄託した社寺には給付金を交付して支援することで社寺の文化財の保護を図ることにありました。このため奈良博が開館してしばらくするとさまざまな寺院から数多くの名品が奈良博に集まり、ここで展示されるようになったのですが、昭和に入って各所蔵寺院に収蔵施設が設置されると、文化財は博物館で保管するのではなく国の補助の下に所蔵寺院の現地で管理する方針に転換しています。

この章では、開館時から昭和初期にかけて奈良博に展示されていた名宝を中心に紹介しており、その冒頭を飾るのは法隆寺のいわゆる《百済観音》(飛鳥時代)です。この像は明治30年から奈良博に寄託された後、出陳(貸出)に切り替えられながら奈良博の顔であり続け、和辻哲郎の『古寺巡礼』で紹介されていわば奈良博の顔として広く知られるようになりましたが、昭和5年に法隆寺に戻され、昭和16年からは同寺の大宝蔵殿に納められています。私も2015年に法隆寺を訪ねたときにこの像を拝見しているのですが、この日の展示室では360度ぐるりと回って背面を眺めることができ、特に光背の支柱が竹の形をしていることとその根元に須弥山(または補陀落山)を模した山岳文様があることを実際にこの目で確認できました。

それにしても毎度思うのはこのひょろりと細長いプロポーションの不思議さで、もしやモディリアーニの前世がこの像を造った仏師なのではないかなどと思ったりもしたのですが、この点について図録に興味深い記述がありました。すなわち、百済観音の身長は金堂壁画観音像と等しく、唐の尺度(1尺=24.5cmの小尺による)で八尺にあたり、これは釈迦如来の身長とされる一丈六尺の半分。つまりこの身長ありきで像を造らなければならなかったものの、材となったクスノキの太さが十分ではなかったためにこのような姿になったのだろうと言うことです。これは目から鱗ながら、なにやら身も蓋もない話のようにも思えますが、同時に図録は、仏典に述べられる観音菩薩の身の丈が八十万億那由多由旬(那由多は10の60乗 / 由旬は図録の記述によれば約15km)と想像を絶する高さであり、その天をも超えるイメージがこの身体表現に反映されているように感じられる、とも述べていました。

その他、古い様式を示す法隆寺の四天王立像(広目天と多聞天:飛鳥時代)や東大寺のあの目つきの悪い「試みの大仏」(平安時代)などが並びますが、ここで強く惹きつけられたのは東大寺《重源上人坐像》(鎌倉時代)でした。南都焼討後の東大寺再興を成し遂げた俊乗坊重源の姿を映し取ったこの像は8年前に「特別展 運慶」で見ており、そのことからもわかるように運慶一門の作とされていて、運慶的な肉体の躍動こそないものの、細い目や引き締められた口元、肩から首にかけての前のめりの姿勢などに不撓不屈の意志の強さを感じさせて、安阿弥様の完成された美の極致を示す快慶作《地蔵菩薩立像》(鎌倉時代:重文)とよい対照を示していました。

奈良博誕生

奈良博の誕生以前、明治8年(1875)から18回にわたり、東大寺を会場として奈良の文化財や産業を紹介する「奈良博覧会」が開催されました。その反響は、やがて博物館の構想に結びつき、帝国博物館(現 東京国立博物館)に次ぐ国立の博物館として、明治28年(1895)に帝国奈良博物館(現 奈良博)が誕生しました。本章では奈良博覧会から奈良博誕生の歩みにまつわる文化財をご覧いただきます。

ここでは興福寺から出張してきている《天燈鬼》《龍燈鬼》(いずれも鎌倉時代)がその異形によって注目を集めますが、同じくこの章で展示されていた古写真(イギリスの王子二人が明治14年に奈良を訪れた際に、おそらく日本側からの贈答品として入手したもの)にもその姿があるので、彼らは古今東西を問わず人気者なのだということがわかります。

このように明治期に撮影された写真が発見されたことで来歴が判明したもう一つの例は、大阪の藤田美術館所蔵の《空也上人立像》です。《空也上人立像》というと六波羅蜜寺のもの(鎌倉時代:重文)が有名ですが、ここで展示されていたのは室町時代のもので、国宝・重文指定を受けてはいません。しかし、白目をむいて口から仏を生じるその姿は明治時代にこれを見た外国人にとってインパクト十分だったらしく、その古写真が現代に伝えられて英国から奈良博に対しその正体についての照会があったことを契機に、この像が奈良・隔夜寺に伝わり初期の奈良博覧会に出品されたのちに転々売買された経緯が明らかになったのだそうです。

かたや《竜首水瓶》(飛鳥時代)はすっきりしたデザインが極めて美しいものですが、下ぶくれの胴に丈の高い脚部をもち、片方に持ち手がつく胡瓶こへいというこの形状は西アジアから唐に伝来したものとされ、胴には有翼馬が刻まれている点も含めシルクロード各地の美術様式が融合した記念碑的な大作であると評価されていました。

ところで、この《竜首水瓶》や《伎楽面 呉公》(飛鳥時代)のように東京国立博物館法隆寺宝物館からやってきた品々は、もともと法隆寺に伝来し、明治初期に奈良博覧会に出品された後に皇室に献上されたものです。そこには、明治期に入って困窮した法隆寺が寺宝の献納によってそれらの保護と下賜金による伽藍の維持を図ろうとする生存戦略があり、これは先月の「相国寺展」の記録で言及した伊藤若冲の《動植綵絵》と同様です。ただし図録の解説は、社寺の衰退や文化財の散逸を招いた要因は、よく言われる神仏分離令による廃仏毀釈よりも、明治4年と8年の上知令によって社寺の所領を取り上げられたことによる経済的打撃であったとしていました。

釈迦を慕う

奈良の地で栄えた仏教の大きな流れとして、釈迦とその遺骨である仏舎利への信仰があります。本章では、飛鳥寺の舎利埋納にはじまり、鎌倉時代に隆盛をみせた律宗の僧である叡尊による舎利信仰まで、釈迦を慕う思いが生み出した各時代における名宝を展示します。なかでも我が国を代表する釈迦如来像の名作とともに舎利荘厳具の数々が一堂に会する展示は必見です。

ここから後の章は戦後の奈良博が開催してきた特別展や名品展で取り上げてきたテーマに基づく展示になります。先に書いたように昭和になって奈良博に展示されていた名品の数々が順次本籍地に戻るようになったことを踏まえ、昭和30年代に入り奈良博は仏教美術の専門館と明確に打ち出して、この方針に即した展覧会を開催するようになったそうです。

この章では仏像・仏画と共に舎利荘厳具の数々が展示されていて、中でも唐招提寺の《金亀舎利塔》(鎌倉時代)は霊亀の甲羅に立てられた蓮華座の上に据えられた宝塔が蓮華唐草文を透彫りにして信じられないほどの金工技術の冴えを示していました。

また、この章で異彩を放っていたのは伊藤若冲《動植綵絵(雪中鴛鴦図・大鶏雌雄図)》で、相国寺の釈迦三尊像を荘厳するために描かれたこの絵もまた仏教美術であることを提示した、というのが主催者側の展示意図でしたが、自分にとってはこれまで見る機会がなかった《動植綵絵》の意外な大きさと色彩の鮮やかさをこの目で確かめることができたのはうれしい驚きでした。

美麗なる仏の世界

善を尽し、美を尽す。仏像や仏画を中心とした祈りの造形は、その時代ごとになし得る最高の美意識と技術を集めて作り上げられました。本章では、華麗なる彩色や截金きりかねを駆使した平安仏画のほか、平安から鎌倉時代に制作されたとりわけ美しい仏像や工芸作品をご覧いただきます。また地獄草紙や病草紙など、ほとけの救いと明暗をなす世界を描いた作品の数々も見所です。

「美麗」というのは平安貴族たちが平安後期の仏画を評して使った言葉だそうですが、ここにはまさに美麗そのものの仏画・仏像・工芸作品が並びます。たとえば京都・宝菩提院願徳寺の《菩薩半跏像》(平安時代)は奈良博では20年ぶりの出展だそうですが、榧材一木から彫り出された無駄のない体躯と結い上げた頭髪や複雑な襞の装飾性は見事と言うしかなく、これで顔立ちがもっとほっそりしていたらガンダーラ仏を連想したかもしれません。

そしてこの章の、と言うより個人的にはこの展覧会の白眉と言えるのは、奈良・円成寺の《大日如来坐像》(鎌倉時代)です。まだ二十代の運慶が父・康慶の指導を受けながら時間をかけてじっくり取り組んだ作と見られており、温和な平安様式と力感を備えた鎌倉様式とのそれぞれの特徴を備え、特に智拳印を結ぶ腕と胸の間の空間が絶妙なのだそうですが、そこまでの審美眼を持っていなくてもこの像が持つ風格の前には誰しも釘付けになるに違いありません。

こんな美しいものを見せた後に、本章ではなぜか血生臭い《六道絵》(鎌倉時代)や《地獄草子》《餓鬼草子》が並べられていて「これのどこが『美麗』なんだ?」と首をひねってしまいましたが、これらを見ていた主婦層らしき女性二人は灼熱の鉄を量らされる悪徳商人や鉄臼に身をすりつぶされる盗人の姿を見て妙にうれしそうでした。

神々の至宝

奈良博が大切にしてきた展示テーマの一つとして神道の美術があります。仏教以前から鏡や剣によって象徴されてきた神々は、やがて神像としても表現され、また神々に捧げるための工芸品も数多く製作されました。本章では東アジアの古代史を語る上でも欠かせない石上神宮の七支刀をはじめ、神々の姿を表した絵画や彫刻、精緻な技巧が凝らされた神宝を通じ、神々に対する祈りの世界をご覧いただきます。

俯瞰表現が楽しい神奈川・遊行寺の《一遍聖絵》(鎌倉時代)やそれこそ美麗ながら重そうな金属満載で馬が気の毒に思えてくる手向山八幡宮の《唐鞍》(同)、さらには重厚な銅鏡(唐)も見応えがありますが、なんと言っても石上神宮(物部氏の氏神)に伝わる《七支刀》(古墳時代)がこの章の目玉です。

展示場ではこの《七支刀》は会場の最後から二番目の場所で展示されており、照明のおかげで象嵌された金の文字が輝いていて思わず「読める、読めるぞ」とムスカ状態。もっとも2020年にもこの刀をじかに見ているのでこれが特別貴重な機会というわけではなかったのですが、今年奈良博がX線CTスキャンを行った結果それまで判別が難しかった文字の一部の解明が進んでおり、その成果が会場で説明されているのがポイントです。ちなみに文字に関して解明された点は、別の文字とする説もあった百済の「済」の字が確認されたこと、象眼の脱落のために異説もある年号に関して「のぎへん」の痕跡がより明確に見えたことで「泰和」(東晋の「太和」)の可能性が高まったことです。いずれにせよ完全解明にはまだ至っていませんが、4世紀後半の高句麗・百済間の緊張関係を軸とする東アジア情勢の証人であるこの刀が、出土品としてではなく伝世品として1600年以上も守り伝えられたことの貴重さを、奈良博はとりわけ強調していました。

写経の美と名僧の墨蹟

仏の教えを伝える経典は、書写することに加え、それ自体を美しく飾ることでも功徳があるとされてきました。わが国においては、経文を写す紙に煌びやかな装飾を施した写経が平安時代に隆盛し、類い希な作品の数々が生み出されています。本章では日本を代表する古写経とともに、高僧たちの墨蹟にみる書の美の世界をご紹介します。

この章に関しては特に説明は必要ないでしょう。上の画像は《金光明最勝王経》(国分寺経:奈良時代)ですが、その他の経典も含めて料紙の装飾にしろ華麗な筆致にしろいずれ劣らぬ優品ばかり。自分も、この美しい字のせめて10分の1程度でもきれいな字を書ければいいのだが……と思いながら見て回り、筆の運びが少々カジュアルな最澄や空海の墨蹟を見て少しほっとしてしまいました。

未来への祈り

釈迦の入滅から56億7000万年後、弥勒菩薩がこの世に現われ、生きとし生けるものを救うと伝えられています。われわれが目指す光に満ちた世界のため、先人たちは写経の埋納などを通じ、未来に祈りを伝えていくことを願いました。本章では中宮寺の菩薩半跏像を中心に、文化の灯を次の時代につなぐ思いを込めた展示を行います。

経箱・経筒などを前置して、最後を締めるのは中宮寺の《菩薩半跏像》(伝如意輪観音:飛鳥時代)です。それまでの展示室は照明を控えめにして落ち着いた雰囲気だったのに対し、この美しい像は白色光に満たされた円型の一室の中央に一体だけで安置され、観覧者がその周囲をぐるりと回れるようになっていました。これは、兜率天での56億7000万年の思惟の時を経て弥勒菩薩が衆生を救済すべく地上へ再誕しようとする「弥勒下生」をイメージしたものであり、この像の下に降ろした左足の先が上方に反り返っているのも今まさに立ちあがろうとしている姿を表している、と図録は説明していました。


冒頭に引用した奈良博公式サイトの紹介文には「(中略)」とした段落がありましたが、それは次のような内容でした。

その名も「超国宝―祈りのかがやき―」 。神仏にまつわる祈りの造形にはそれらを生み出し、守り伝えてきた先人たちの深い思いが込められています。なかでも「国宝」は私たちの歴史・文化を代表する国民の宝として広く知られています。「超国宝」という言葉には、そうしたとびきり優れた宝という意味とともに、時代を超え先人たちから伝えられた祈りやこの国の文化を継承する人々の心もまた、かけがえのない宝であるという思いを込めました。

まことにこの「超 国宝」展は、千数百年にわたって受け継がれてきた国の宝を一望し、それらを次の世代へ引き継ぐことの尊さを実感する機会を与えてくれる展覧会であったと思います。すでに会期は残り少ないですが、一人でも多くの人が奈良博へ足を運ぶことを願います。

「超 国宝」展を見終えた後、同じ奈良博の仏像館にも入ってみました。お目当ては、吉野の金峯山寺の仁王門(国宝)に安置される《金剛力士立像》(重文)二軀です。

像高5メートル、国宝・重要文化財に指定されているものの中では東大寺南大門像に次いで2番目に大きいとされるこれらの像は、2028年度までの予定で行われている仁王門の修理期間中、奈良博が保管しているものです。そう言えば2017年に吉野に行ったときに仁王門がすでに修理中だったことを思い出しましたが、ここでこうして二軀の像のみなぎるパワーを浴びることができようとは。

東大寺

せっかくの奈良訪問なので、まずこの日は奈良博の開館前に東大寺を散策し、南大門・大仏殿・二月堂・三月堂(ここまですべて国宝)・戒壇堂を訪れて仏様たちに再会しました。さすが東大寺、拝んだものの中で国宝だけをピックアップしても次のとおりです。

  • 南大門
    • 木造金剛力士立像
  • 金堂(大仏殿)
    • 銅造盧舎那仏坐像
  • 法華堂(三月堂)
    • 乾漆不空羂索観音立像 / 乾漆梵天・帝釈天立像 / 乾漆金剛力士立像二躯 / 乾漆四天王立像
  • 戒壇堂
    • 塑造四天王立像

興福寺

また、奈良博を出た後に興福寺の国宝館・東金堂・中金堂もハシゴしました。こちらも国宝・重文のオンパレードで、国宝とされている仏像に限っても以下のとおりです。

  • 国宝館
    • 木造金剛力士立像 / 木造千手観音菩薩立像 / 乾漆十大弟子立像 / 乾漆八部衆立像
  • 東金堂
    • 木造四天王立像 / 木造維摩居士坐像・文殊菩薩坐像 / 木造十二神将立像
  • 中金堂
    • 木造四天王立像

2018年に再建されたばかりの中金堂が空間を持て余してすかすかな感じだったのと、無著・世親立像を納めた北円堂が今の時期は公開されていないことが残念でしたが、久しぶりに阿修羅たちに会うことができてハッピーでした。

こんな具合に国宝まみれになって俗気が抜けたところで、ならまちまで歩いて遅めの昼食をとり買い物もしてから、この日の宿がある大和高田へ移動しました。翌日は京都か大阪の博物館に転進するのももちろんありですが、奈良博の印象を薄めたくなかったのでそうはせず、自分にとってはめったに歩く機会のない金剛山地(大和・河内の国境)での山歩きをすることにしています。

◎翌日の大和葛城山〜金剛山の縦走の様子は〔こちら〕。

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