日本京劇芸術祭2026
#970 - 新潮劇院
2026/10/04
北沢タウンホール(下北沢)で、新潮劇院による「日本京劇芸術祭2026」。京劇を観るのは2019年以来、実に7年ぶりです。
この年は6月に上海京劇院が来日し、さらに8月には憧れの史依弘(史敏)が昆曲と京劇を織り交ぜた特別な四公演を行ってくれたのですが、この公演の案内の中で、それまで日本での主要な京劇公演の招聘元として大きな役割を果たしていた楽戯舎が招聘事業を終了することがアナウンスされたため、これでもう京劇を日本で観ることはできなくなったととても残念な思いをしたものです。
ところが今年になって、在日中国人京劇俳優と日本人京劇俳優とで構成される新潮劇院という在日京劇団が1996年から活動しており、その30周年記念公演が8月に開催されることをSNSで知りました。あいにくこの記念公演は都合が合わず観ることができなかったのですが、その代わりとしてここ数年の同劇団の定例公演として実施されている「日本京劇芸術祭」を観ることにしたというわけです。ただしこれはプロの京劇俳優による公演ではなく、養成中の俳優のいわば発表会のような位置付けのものだったので、身構えることなく軽い気持ちで臨んだのですが、結論を先に書くとたいへん充実した楽しい公演でした。
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まず参加したのは、16時15分からの「初心者向け京劇レクチャー」です。後ほどの本公演でも司会を務めた張烏梅氏が舞台上に立ち、京劇の歴史や特徴、演じる上での所作や発声の勘どころなどを巧みなトークと実演とで手際よく紹介してくれました。特に、舞台上の移動やそこで演じられる仕草の中に丸い動きを取り入れる「圓ユアン」という京劇の動きの基本の説明は、この後の公演を鑑賞する上でもとても有益でした。しかしレクチャー参加者にとって最も有意義だったのは、拍手と共に行う「好ハオ」という掛け声の掛けどころの説明と発声練習だったかもしれません。そのおかげで、公演中の客席からの拍手や掛け声が(ちょっと過剰に思えるくらい)盛んに客席から飛ぶことになりましたから。
このレクチャーからしばし間を開けて、18時からはいよいよ本公演。その冒頭には明治大学の加藤徹教授の解説が置かれ、各演目のあらましがユーモアを交えたトークで説明されました。この解説の中では、X軸に武戯↔文戯、Y軸に典雅↔通俗を当てはめた四象限を設定してこの日の演目をプロットしつつ「武戯文唱、文戯武唱」「文不温、武不躁」という諺が紹介されており、いずれも武戯には文の風格が、文戯にも武の厳しさが必要だといった意味のようで、これらの言葉が鑑賞の勘どころになりました。
以下、公演の様子を振り返りますが、それぞれの演目について当日配布されたリーフレットから解説を引用し、その演目のこれまでの観劇履歴を付記した上で、この日の上演の感想などを簡単に記します。
盗仙草
| 解説 | 中国四大民間伝説『白蛇伝』の一節。白蛇の化身・白素貞が夫を救う仙草を求め、仙童と戦う。槍を蹴る技「踢槍ティーチャン」が見どころ。 |
| 出演 | 白素貞:樋口理世 / 鹿童:侯華澤 / 鶴童:野口友椰 |
| 履歴 | 「盗仙草」(中国京劇院・2002年) / 「白蛇伝」(上海京劇院・2002年) / 「白蛇伝」(中国国家京劇院・2016年) |
最初に登場する鶴童のきびきびとした所作とアクロバティックな跳躍・回転がまず客席の喝采を集め、ついで現れた白素貞のきりっとした立ち姿が華やか。ただし、ここでの白素貞は自分の真の姿を見たために命を落とした夫を救おうと必死で、その切迫感は鹿童に対する呼掛けの中にひしひしと感じられましたが、その懇請をにべもなく断られた後は剣や槍での立ち回り。打楽器群が最高潮となる中、左右から投げつけられる槍を白素貞が足で見事に蹴り返すと、鹿童と鶴童もこれを空中で巧みに受け止めてみせ、最後は仙草を手に入れた白素貞が見得を決めて、公演の冒頭を十分に盛り上げて終劇となりました。
借東風
| 解説 | 『三国志演義』名場面、赤壁の戦いでの一節。魏軍への火計を成功させるために、諸葛亮が南屏山の祭壇で祈祷を行い、東南の風を呼び込む様子を格調高い「唱」で描く。 |
| 出演 | 諸葛亮:小林孝徳 |
| 履歴 | 「京劇三国志 赤壁の戦い」(湖北省京劇院・2010年) |
出演者の小林氏は唱に惹かれて京劇を学んだのに立ち回りばかりやらされていたので、この日は満を持しての出演だという紹介がありましたが、その言葉の通り、老生・諸葛亮の悠然とした歩みの中に朗々と歌われる格調高い「唱」に加え、クライマックスでは舞台前方からの照明により孔明のシルエットが背景に明滅することにより東風の中に焔が上がる幻影のような効果も見られて、赤壁の情景が脳裏にまざまざと浮かぶようでした。
小放牛
| 解説 | 民間の歌や踊りから生まれた演目の登場シーンを小学生が上演。軽やかで愛らしい舞とともに、春ののどかで美しい景色を歌い上げる。馬鞭マーピェンを使ったしぐさで、ロバに乗って進む様子を表現する。 |
| 出演 | 村娘:髙橋澪奈 |
小さな女の子がきちんとした扮装で歌い舞う姿が超かわいくて、春の農村ののどかな情景に理屈抜きで幸せになれる作品。ただし、舞いながら赤い馬鞭を空中で順手↔逆手に持ち変える技巧からは、しっかりと練習を重ねた上でこの舞台に立っていることが窺えます。
天女散花
| 解説 | 『維摩経』の説話をもとにした舞踊劇。神秘的な唱と長い絹の帯を使った舞で、天女が空を舞う様子を表現する。前半の「二六」と後半の「流水」を、それぞれ別の出演者が演じる。 |
| 出演 | 天女:柳澤つばめ / 張灼華 |
『維摩経』に基づく歌詞の意味のわからなさがなんともありがたい……という紹介がなされた演目ですが、舞の方は見ごたえたっぷり。この演目の前半を務めたつばめさんはまだ小学生?と思える容姿でしたが、自分の身長の三倍ほどもある淡い多色の羽衣をマフラーのように首に掛け背後に長く引いて現れたかと思うと、舞台上ではその長さをものともせずまるで新体操のリボン競技のようにダイナミックに操ってみせた上に、唱の方も本格的。その出来栄えにはおそらく客席の全員がびっくりしただろうと思います。続く張灼華さんは典型的な京劇美人で、その表情や繊細な指先の動きに大人の余裕を感じさせましたが、瞬間的に見せる旋回の鋭さも見事でした。
清唱:看大王
| 解説 | 京劇の名作『覇王別姫』より、虞姫が項羽を想い歌う名唱「看大王」を平服で披露。京劇の真骨頂である「唱」の魅力を届ける。 |
| 出演 | 宮本瑠衣子 / 陶景欣 |
休憩を挟んでここから後半。舞台上に2本のマイクが立ち、平服の二人の女性が一人は腰の前に手を組み、一人は所作を交えて声を合わせます。能楽には謡だけをたしなむという親しみ方がありますが、京劇にも同様の接し方があるということを恥ずかしながら初めて知りました。
小放牛
| 解説 | 1回目とは異なる出演者が、唱の部分を少し長くして上演。同じ演目でも、演じ手によって変わる表情やしぐさ、歌声の魅力をお楽しみください。 |
| 出演 | 村娘:劉知希 |
演者はやはり小学生くらいの子供で、名前(ともき)や声の感じからすると男の子?と思いましたが、舞台上に現れたのはやはり村娘の姿。あどけなくも凛々しく、立派な京劇俳優ぶりでした。
貴妃酔酒
| 解説 | 『傾国の美女』とも称される楊貴妃が玄宗皇帝との酒宴に向かうため登場する場面を上演。京劇の主流である梅派の代表演目で美しい装いと伸びやかな唱が見所。 |
| 出演 | 楊貴妃:二澤光美 |
| 履歴 | 「貴妃酔酒」(上海京劇院・2002年) / 「貴妃酔酒」(史依弘・2019年) |
加藤教授の解説によれば「中年にさしかかった女性のプライド」を描きつつ下品すぎても上品すぎてもいけないギリギリの演目だと言うことでしたが、過去に観た史敏の楊貴妃ではいくつになっても失われない可愛らしさのようなものが加わって、そのことが主人公への感情移入を助けていました。この日は登場の場面のみの上演なので感情的な揺らぎは見られないものの、華やかな装いの中で目元や口元にそこはかとなく見られる愛嬌が魅力的で、これだけで十分に一場面を成立させていたように思います。
挑滑車
| 解説 | 歴史小説『岳飛伝』の一節。猛将・高寵こうちょうが敵陣へと単騎で乗り込む武劇。将軍の登場様式「起覇チーバー」と、立ち回り部分を上演。 |
| 出演 | 高寵:南部快斗(劇団「隕石のかけら」) / 黒風利:小林孝徳 |
背中に靠旗を四本立て甲冑を模した衣装をまとった武将の登場は威風堂々。高寵は架空の人物だそうですが、知らない人が見たらその実在を疑いようがないほどの存在感を示しつつ、歌いながら足を高く上げる(踢腿)などの型を決めてそのたびに拍手や「好」の声が掛かります。ついで立ち回りに登場した敵将・黒風利は軽装から想像されるように負けキャラで、高寵に果敢に挑んではその矛に三度押しつぶされついに退散(実は罠?)。最後は高寵が矛を孫悟空の如意棒のようにぶんぶん振り回すダイナミックな見せ場を作って終劇です。
ところで敵将の登場前に高寵が素早い回転を行ったところ、その勢いのせいかかぶり物が外れてしまうアクシデントがありましたが、演者の南部氏はこれを落とすことなく手で受け止めると、まるでそれが演出の一部であったかのように嘆きの表情を見せてからかぶり物を下手袖に下げて演技を続け、自身もいったん下手に下がっている間を楽士陣がつないでくれて、しばらくの間を置いた後にかぶり物をかぶり直して再登場。最後の矛を振り回す場面でもたびたびかぶり物がぐらついていましたが、破綻を回避して演じ切ったその舞台度胸には拍手喝采が集まりました。
なお、この日は「時間の都合」で演じられませんでしたが、元来この演目では最後に高寵が敵軍の繰り出す鉄滑車を次々に跳ね飛ばすものの最後に力尽きて押しつぶされる場面が見どころだそうなので、いつかその場面を含む完全版を観たいものです。
覇王別姫
| 解説 | かつての名優・梅蘭芳の代表作として知られ、『四面楚歌』の故事を描く京劇の名作。劇中の「垓下の歌」に登場する「騅」は、項羽の愛馬・烏騅のこと。迫力ある隈取と、中国でも希少な「男旦ナンダン(男性が演じる女性役)」での上演は必見。 |
| 出演 | 虞姫:郭江 / 項羽:張小山 |
| 履歴 | 「覇王別姫」(大連京劇院・1999年) / 「覇王別姫」(天津青年京劇団・2009年) / 「覇王別姫」(天津京劇院・2014年) |
本公演のクライマックスは、日本人に最もなじみの深い演目と言えそうな「覇王別姫」。解説にある通り虞姫を演じた郭江氏は男旦ということですが、その高い声での唱にも美しい容姿にも何ら違和感がないどころか、むしろ虞姫そのものという気がしてきます。かたや項羽も、その雄大な体躯と力強い臉譜に美髯、そしてあのガラガラ声がいかにも猛将ですが、勧められるままにあおった酒の杯を背後に投げ捨てて歌う「垓下の歌」〔Wikipedia〕の中で虞姫の手をとる姿には、敗残の運命を直視しなければならない項羽の嘆きが見てとれました。
特に感情移入させられたのは、舞の準備をするためにと虞姫がいったん下手に下がった後、それを見送った項羽が手をわなわなと震わせながら舞台上に円を描いて中央奥の席に戻る場面。これという説明もないこの場面に示された表現の深さは、過去に何度か観てきたこの演目では着目できなかったポイントです。項羽は今から2200年前に生きた人物ですが、このように日本の歴史スケールからは想像もつかないほど昔の人物の生と死を、演者はどういう気持ちで舞台上に再現しているのか……などと考えこんでいるうちに双剣を手にして舞台に戻ってきた虞姫。能のシオリのような所作を見せてから大王(項羽)のためにと始めた舞は、最初のうちはゆったりした打楽器のリズムに乗り細かい所作を連ねながらの歌い舞いでしたが、やがて両手に分け持った二本の剣を鮮やかにひらめかせながらのスピーディーな剣舞になりました。
かくして動きが激しくなりながらも、郭江氏の姿態は(たとえば肩の落ち具合など)どこまでも女性のそれで、そこに虞姫の悲壮な覚悟がはっきりと見てとれます。舞の最後を客席に背を向けてのえび反りで決めて喝采を集めた虞姫が、敵の囲みを突破して共に逃れようと呼び掛ける項羽の言葉を足手まといになるまいと拒み、隙を見て抜き取った項羽の宝剣を首に当てて自刎したところで舞台上は暗転。いやいや、これは「発表会」レベルなんかではないでしょう?

すべての演目が終了した後、演者たちが次々に舞台上に戻ってきて客席からの拍手を浴び、最後に撮影タイムも設けられて「日本京劇芸術祭2026」は幕を閉じました(終演20時20分)。
率直に言えば、この公演に対しては当日まで高すぎる期待を持たないようにしていたのですが、蓋を開けてみたら各演者のそれぞれに真摯な取組みに加え、本格的な衣装、効果的な照明、さらに八大奏楽社による伴奏が相俟って、満足度の高い京劇公演を楽しむことができました。客席の方を見ても、能楽の見所の静謐もいいけれど京劇の客席と舞台が一体となった熱気もまた悪くないなと思えて、今後も機会をとらえて京劇公演に足を運ぼうという気にさせてもらえたこの日の公演でした。
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