棒縛 / 忠度

2023/05/24

銕仙会能楽研修所(南青山)で青山能。狂言「棒縛」、能「忠度」。

「棒縛」は2008年2019年にいずれも和泉流(シテは佐藤融師と野村萬斎師)で観ており、能「忠度」も2018年に宝生流(佐野登師)で観ています。それぞれの鑑賞記録において舞台進行を詳しく記述しているので、ここでは細々と筋を追うことはせず、これはと思うポイントを書き留めておくことにします。

棒縛

この日も和泉流なので、基本的な内容はこれまでと変わりありません(大蔵流の場合は縛られるシテは次郎冠者で、最後は縛られたままのシテが主を棒で追い込む由)。とにかく明るい舞台で、特に縛られたまま残された太郎冠者(野村拳之介師)と次郎冠者(河野佑紀師)の仲良しぶりには観ている方もつい頬が緩んでしまいました。

互いに相手に酒を飲まし飲まされるときの「静かに」「こぼすな」のリフレインも楽しく、すっかりよい気持ちになった二人が謡った曲は最初が酒は元薬なり。世はまた人の情けなり。浮世を忘るるも偏に酒の徳とかや、次に太郎冠者が謡い次郎冠者が舞うのが七つに成る子がいたいけな事云うた(七つ子)、さらに次郎冠者が謡い太郎冠者が舞うのは暁の明星は。西へちろり東へちろり(暁)。そして二人でつわものの交わり。頼みある仲の酒宴かな。ここで帰ってきた主(石井康太師)の仏頂面も、これが盃の酒に映ったら確かに執心だと勘違いするのも無理はないと思わせるハマり役。憎々しげなその顔を謡に作って二人で謡うのは謡曲「松風」(月は一つ影は二つ)の替歌で嬉しやここに酒あり。主はひとり影はふたり。満つ汐の夜の盃に主をのせて。主ともおもはぬうちの者かな。おおらかに謡われる酌謡の数々を舞台と見所が一体になって楽しんできましたが、ここに至ってついに「がっきめ!がっきめ!」と二人とも打擲されて次郎冠者は早々に退散し、太郎冠者も一度は棒をもって抵抗するそぶりを見せたものの、最後は笑いながらお許されませと追い込まれていきます。

過去二回の鑑賞では、案山子のように棒に縛られた太郎冠者が後ろ手に縛られた次郎冠者と息を合わせて酒を飲んだり不自由ながらも舞を舞ったりする形の面白さばかり観てきましたが、二人の会話を聞いているうちに不意に次のやりとりが深い意味を持って伝わってきました。

太郎冠者「肴にひとさしお舞いやれ」
次郎冠者「このように縛られていてなんと舞が舞わるるものか」
太郎冠者「それが面白い

同様のやりとりはこの後で次郎冠者が太郎冠者に舞を求めるときにも繰り返されるのですが、考えてみると、人に使われる立場の太郎冠者や次郎冠者はその身分のゆえにさまざまな制約を課されながら日々を暮らしているわけで、それはいわば棒にくくりつけられたり紐で縛られて生きているようなものです。そんな逃れ難い不自由の中にあっても笑いや歌舞を忘れず、酒に代表される人生の喜びを謳歌しようと知恵を絞って協力し合う太郎冠者と次郎冠者の姿の中に人間のたくましさが活写されている点が、この狂言の一番の魅力なのかもしれません。

忠度

世阿弥作の二番目物の複式夢幻能で、須磨を舞台として文武両道に優れた平忠度(平清盛の異母弟)の最期が描かれますが、ポイントとなるのは忠度が詠んだとされる次の二首の和歌です。

さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山櫻かな
行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし

平家都落ちに際し歌道の師である藤原俊成に託した前者の歌が『千載和歌集』に収められたものの、勅勘の身である忠度の名を冠することを憚った俊成が「詠み人知らず」としたことが忠度の無念となり、その執心を晴らすべく俊成の身内であった旅僧に藤原定家(俊成の子)への言伝を頼もうと姿を現すというのが基本構造で、そこに須磨という土地柄が想起させる『源氏物語』の情緒と悲愴な忠度最期、そしてそこに見出された後者の歌が織り込まれます。

まずは囃子方と地謡が舞台に入りますが、今回は小鼓が女性の岡本はる奈師。同じこの銕仙会能楽研修所の舞台で大山容子師が「千手」を打つのを初めて聞いたときは、聞き手である自分の側の経験不足から女声の掛け声に引っかかりを覚えてしまった(その後「鞍馬天狗」で解消した)のですが、この日の岡本はる奈師の掛け声は自然体の高い音で発せられていて、最初の〔一声〕からすんなり耳に馴染んできました。

ついでワキツレ二人を率いて登場したのはワキ/旅僧の村瀬提師ですが、体躯・表情・発声とも迫力満点ながら声が鼻にかかっていたのは風邪気味だったのかな?これに対する前シテ/尉の長山桂三師は尉出立で、右手に杖、左手にはピンクの桜花。笑尉(出目満志作)の面の中からでも素晴らしくよく通る、深みのある謡に惹き込まれました。常座から数歩進んで「ある人の亡き跡のしるし」の前に膝を突いたシテが桜花を手向けて左手で祈りの形を示すとしみじみとした風情が漂い、さらにワキとの問答で須磨の海人である自分は藻塩を焼く柴を得るために山に入るのであると説明した後に須磨の若木の桜は、海少しだにも隔てねば、通ふ浦風に山の桜も散るものをと地謡が謡うときに角から左足をやや引いた姿で山を見上げる立ち姿にも思いがこもります。そしてこの「風に散らされる桜」というモチーフは、後で思わぬかたちで再現されることになります。

それにしても先ほどからワキは迂闊な質問をしてはシテに咎められることを繰り返しており、海人がなぜ山に?と訊ねて「では海の塩を誰が焼くのだ(あまりにおろか)」と返されたかと思えば、今度は一夜の宿を貸してほしいと願って「この花の蔭ほどの宿があろうか(うたてやな)」と言われ、さらに行き暮れての歌の主を悼むいたはしやにかすかに激情をこめたシテから「あなた達はどうして弔いをしないのだ(おろかにまします人々かな)」とこてんぱん。ワキの旅僧がシテとの問答で叱責を受けるというのは能ではよくあるパターンですが、ここまで立て続けにやり込められると気の毒になってきます。それでもワキが忠度の成仏を祈るとシテは正中に進んで下居し、杖を床に置き扇を手にしてありがたや今よりは、かくとぶらひの声聞きて、仏果を得んぞうれしきと合掌。ここからシテは地謡との掛合いの中に自らが忠度の霊であることを明らかにし夢の告をも待ち給へ、都へ言伝申さんと言い残して右回りに常座に戻り、笛に送られて中入しました。

野村万之丞師のアイ語リは、桜の由縁と忠度最期の様子を朗々と語り聞かせて見事でした。平家都落ちに際して俊成の元に引き返した忠度はさざなみやの歌を託したものの『千載集』に「詠み人知らず」とされたこと、一ノ谷の合戦で配色濃厚となり海上に逃れようとした忠度が源氏方の武者に囲まれて遂に討たれたこと、最後に残された行き暮れての歌の心に沿って標しるしのために植えられた桜が今では若木の桜(cf.「須磨源氏」)と呼ばれて隠れもない名木となっていること。見所がアイの語リを一言一句聞き逃すまいと集中する様子が、最前列に近いところに座っている私にもひしひしと感じられました。

アイの説明を受けたワキ(福王流)がまづまづ都に帰りつつ、定家にこのこと申さんとの句を述べてからワキツレと共に謡い始めたのは夕月早くかげろふの以下の上掛系の待謡。その結句は手元の謡本では須磨の関屋の旅寝かなになっていますが、実際に謡われたのはそこだけ下掛系の嵐はげしき景色かなで、そこにヒシギがかぶさると大小の鼓がこの句に対応して急調の激しい手を打つ〔頭越かしらこし一声〕となりました。

しかる後に現れた後シテ/薩摩守忠度は梨打烏帽子に黒垂白鉢巻の下の面は若男(洞水作)、暖色系の四花菱を連ねた着付の上に萌葱地金唐草紋のたぶん長絹の右肩を脱いで、金の箔が裾に花七宝文様を描く白大口の背に矢を立てています。常座に進んだシテは文武両道の平家の公達らしくノーブルながら力強い声音で、我が歌が『千載集』に入ったものの「詠み人知らず」とされたことが妄執となっているので作者名を付けるよう俊成の跡継ぎである定家に頼んでほしいと思いあなたの夢に現れたのだ、とワキに語りかけてから正中に進んで下居。地謡とワキによる〈クリ・サシ〉において忠度の歌道に対する造詣が説明された後に身を起こしたシテは、都落ちに際し狐川から都へ引き返して俊成の家を訪ねたくだりを橋掛リから戻る姿で簡潔に示してから、角で袖を翻し舞台を大きく廻って大小前で足拍子を繰り返した後にわずかに身を屈める印象的な姿によって西海に浮かび須磨に落ち着くまでを描くと、ここから一ノ谷の合戦に突入します。

今はこれまでと平家の人々が続々海上へ逃れる中、シテも橋掛リに出て欄干越しに海を見る形を見せましたがわれも船に乗らんとて急いで舞台に戻ったときに岡部六弥太以下六七騎の追撃を受け、気迫のこもった武人の声でこれこそ望むところよと引き返してからは一騎討ち。組み合って共に馬から落ちた六弥太を押さえつけたもののその郎党に右の腕を落とされた忠度が、左腕一本で六弥太を投げ飛ばしてから周囲を制して十念を唱えるうちに首を落とされるまでを、シテは写実的な型の連続で示しました。

一転して低く謡われる六弥太心に思ふやうからシテの人格は六弥太に変わり、自分が討ち取った公達を見下ろす形となるといったん空を見上げてから相手の素性を確かめるために右膝を突きましたが、そのとき見所からは六弥太の前に忠度の亡骸が見えるようです。後ろを向いて背から抜き取った矢に付けられた短冊に右手を添えたシテ(六弥太)が行き暮れて木の下蔭を宿とせばまでを地謡に謡わせつつ足拍子を踏んで常座に後ろずさると、ここで大小の上に無常感を漂わせる笛が加わって常座→角→正中と緩やかに辿る〔立回リ〕を経て常座で一回転。下の句花や今宵の主ならましと忠度の名とを読み上げて自らが討ちとった相手を知ったシテは、痛切な思いを抱きつつ小さく回って脇正に膝を突き矢を捨ててシオリ。

その姿が前場で「ある人の亡き跡のしるし」に桜花を手向けた前シテの姿とオーバーラップしたところでシテは再び忠度の霊に戻り、物語を終えた今はあの世に帰ろう(花は根に帰るなり)とワキに告げてから舞台を廻って常座で雲ノ扇を見せた後、あなたがこの木蔭を宿とするのであれば私が宿の主人である(花こそ主なりけれ)というキリの地謡を聞きながら左袖を返して留拍子を踏みました。

これはと思うポイントを書き留め……と言っておきながら途中からいつものように舞台の再現描写になってしまいましたが、やはり「忠度」の後場の流れるような型の連続の中から浮かび上がる心理描写は圧倒的で引き込まれます。私の隣には外国人観客二人が座っていて、付箋をいっぱいつけた英語版の分厚い詞章集を手にしながら固唾を飲んで舞台上を凝視していましたが、気品の中にも一本筋の通った長山桂三師の謡と舞に地謡と囃子との力感が重なり、この小さな能楽堂ならではの臨場感も相まって、目の前で行われていることが言葉の壁を越えて彼らに伝わっているであろうことが横目にも見て取れました。

ただ、こうして詞章を読み込みながら振り返ってみると、修羅物とは言いつつも忠度の執心の源はあくまで和歌にあり、一見迫力のある合戦の描写も行き暮れての歌を導くために置かれたもののように見えてきます。このことは実はアイ語リで紹介された忠度の言葉からも窺えていて、俊成の元に立ち戻った忠度は「自分は一ノ谷で討死すべき身であり今生に思いおくことはないが、千載集に漏れること(だけ)は無念であるので、哀れと思しめすなら千載集に一首加えてほしい」と懇願し、俊成がこの願いを聞き入れると約束すると忠度は「われ山谷に屍をさらすと言えども今はこの世に望みなし」と喜びの袖を絞ったことがアイの口から語られていました。

つまり「生き抜くこと」を最初から諦めている忠度はその代わりに「生きた証を残すこと」に執着していたという構図になるわけですが、これはどんな制約があろうと生を謳歌しようとする「棒縛」の太郎冠者・次郎冠者とは対極の生き方であることに後から思い至って、この二曲の組合せの持つ意味に半ば慄然としたのでした。

最後に、終演後の鵜澤光師による解説の内容をかいつまんで記しておきます。

  • 修羅物では敗者が主人公となるものが多い。多くは『平家物語』に題材をとっており、それは敗者のロマンということもあるが、貴族的な平家の側に描きやすい素材(たとえば忠度の和歌、敦盛の笛、経正や重衡の琵琶)が多く作劇しやすいためでもある。
  • 「忠度」のテーマは和歌と桜。今日の後場での急調の出囃子〔頭越一声〕は、忠度のメタファーである桜が六弥太を表す嵐により吹き散らされたことを想起させるものであり、この「嵐により散った桜」というイメージが「忠度」の下敷きにあると故・野村四郎先生から伺った。
  • 花鳥風月といった美しいもの(文化)は時代に翻弄されやすく、戦争の中で儚く滅んでしまうものだということを世阿弥は描いており、600年の時を隔ててこのことを追体験できるのは能ならではである。今日だけでなくいろいろな能を観て、その作られた時代から現代にまで通じる思いを共有してほしい。

配役

狂言 棒縛 シテ/太郎冠者 野村拳之介
アド/主 石井康太
小アド/次郎冠者 河野佑紀
忠度 前シテ/尉 長山桂三
後シテ/薩摩守忠度
ワキ/旅僧 村瀬提
ワキツレ/従僧 村瀬慧
ワキツレ/従僧 矢野昌平
アイ/里人 野村万之丞
藤田貴寛
小鼓 岡本はる奈
大鼓 佃良太郎
主後見 浅見慈一
地頭 小早川修

あらすじ

棒縛

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忠度

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