長刀応答 / 角田川

2024/03/15

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「長刀応答なぎなたあしらい」と能「角田川」。前者は初見、後者(金春流)は2021年に中村昌弘師のシテで観ています。

長刀応答

まず主(野村萬斎師)と太郎冠者(深田博治師)が登場。伊勢参宮を思い立った主は太郎冠者に留守を命じますが、庭の桜を見にくるであろう人々を自分のようにはあしらえないであろうからせめて長刀応答になりともしておけ、と言い含めます。ここでの「長刀応答」とは長刀で右に左に受け流すように大勢の客を捌けという意味なのですが、太郎冠者はその言葉を知らないために主に聞き返したあとで、怪訝そうな口ぶりながらも請け合い主を送り出しました。

主の参宮を羨ましくは思うものの、留守を任されたことを誇らしくも思う太郎冠者は「大事の留守は槍長刀でする」という言葉を思い起こして張り切っている様子。そこへ最初の客がやってきて、花の盛りを見物しようと独白するといったん舞台から一ノ松へ出てそこから案内を乞いました。花が咲いていれば見物させてほしいという客の言葉に太郎冠者は客を舞台(屋敷の庭)に通しましたが、客が脇柱の近くから手入れの行き届いた庭の様子をほめそやしていたところに近寄って長刀を突き出してきます。これに驚いた客は「怪我をせぬうちに」とあわてて帰っていき、その様子を見送った太郎冠者は呵呵大笑してこれが主だったら茶よ酒よと埒が明くまいと自画自賛。そこへやってきた第二の客も桜の満開を愛でているところを長刀で脅されて這々の体で帰っていき、太郎冠者はますます大喜び。

すると先ほどの二人の客が立衆三人を連れて橋掛リに現れ、勘違いをしている太郎冠者から長刀を奪い取ろうと談合すると、まず二人は後見座に控えて右肩を脱ぐうちに立衆たちが最前の客のように案内を乞うて太郎冠者に庭へ通してもらいます。そしてまたしても太郎冠者が長刀を持ち出したところを一人が羽交締めにし、狼狽する太郎冠者から長刀を取り上げた上で四人で手足を持って大揺れに揺らした上で舞台前方へ投げ出すと「ちゃっとござれ」「心得ました」と声を合わせて賑やかに引き上げていき、残された太郎冠者も「やるまいぞ」と後を追いました。

春という季節にふさわしくまるで屈託のない喜劇ですが、いつもなら主に叱られるはずの太郎冠者がここでは客たちに反撃されて終わるというちょっと変わった作品でもあります。無理にしかつめらしく見ようと思えば客を適当にあしらうことを戒める教訓劇と言えなくもないものの、そんなふうに難しく考える必要もなさそう。それにしても狂言には「月見座頭」のように人の心の闇に正面から向き合う作品もあれば「萩大名」のように権威を笑い飛ばすものや「梟山伏」のように一種のホラーもあり、そして見たままのおかしみを楽しめる「長刀応答」のような作品もあるといった具合に作風の幅の広さは驚くばかりです。ただ、この「長刀応答」は内容的には後に続く「角田川」に通じる要素が見当たらないのですが、それでもあえてこの日の番組に組み込んだのは「角田川」の悲劇性と対極にある明るさを提供しておきたかったということなのでしょうか。

角田川

冒頭に記した通り、この「角田川」(他流では「隅田川」)は2021年に見ているのでここでこまごまと筋を追うことはしません。以下、拝見していて心に残った事柄を順不同で書き並べてみます。

  • あらためて振り返ってみると、本田光洋師は地頭や主後見としては何度も舞台上で見ているものの、シテとしての師の姿を拝見したのは10年前の「俊寛」が唯一だったので、久しぶりに見たその姿の小柄さにまずおっと思いました。もっとも今回は母の役なのでむしろ役柄に合っているのですが、考えてみると三間四方という舞台の規格は万古不易なのにそこに立つ能楽師の身体は全体としては大きくなってきている(ワキの福王茂十郎師も堂々たる体格です)ので、舞台の見え方も室町時代と今とではずいぶん違うのかもしれないなぁと少々脱線気味の感慨を持ちました。
  • その本田光洋師の出立は笠の下に曲見面、浅葱らしき色の水衣の下に見えている縫箔は茶の地に金色の立涌文様で右手には狂女物のお約束の笹。お歳(1942年生まれ)のためもあってか足が万全ではないらしく、舟に乗っている場面や塚の前に座る場面では下居ではなく後見が持ち込んだ小ぶりな丸い座卓のようなものに座っていました。このため、たとえば舟から立ち上がるときにはワキが背後から支えて立たせていましたが、ここは我が子の死を知って泣き崩れているシテに同情したワキがあら傷はしや候と言って墓所まで案内する場面なのでごく自然な流れです。
  • しかし、能を演じる者の鼎の軽重はもちろんそうしたアスリート的な要素のみに左右されるわけではありません。本田光洋師の決して声高ではないのに情感のこもった謡や語りや所作には見所を聞き入らせる力があって、ワキをやり込めるところでは都人の矜持、梅若丸の死を知っての嘆きでは絶望、そして人々に今の幼な声はいづくの程にて候ぞと訊ねる場面ではないまぜになった狼狽と希望とが伝わってきました。
  • 所作と言えば、舟の中でワキがワキツレ(喜多雅人師)に問われるがままに哀れなる物語を語るうちにシテが梅若丸の死を悟る場面で、他流では笠を用いた表現を伴うことがあるのですが、この演出では登場の直後に笠を後見に渡してしまうのでそれはなし。にもかかわらず、斜めを向いて背中でワキの語りを聞いていたシテの心がどんどん曇っていく様子が伝わり、静かにシオリの形になってから今のお物語はいつの事にて候ふぞと絞り出すようにワキに問い掛けたときには見ている方も心を揺さぶられて、私の隣の席の外国人女性などは涙が止まらなくなっていたほどでした。
  • 塚の前に案内されたシテが人々に向かって今一度我が子の姿を見させてほしいと訴える場面は、これまで見てきた他流の演出では激情を迸らせる型が入ることがあり(たとえば〔こちら〕)、本田光洋師もここでは塚に駆け寄って膝を突くとワキを訴えかけるように見上げてからシオルといった具合でしたが、むしろその後に塚の前に身を傾けつつ座してかすかに面を照リ曇リさせる姿の方に深いところからくる悲しみが滲んでいました。
  • 地謡によって繰り返される南無阿弥陀仏の名号が繰り返される中に子方(中村優人くん)の声が重なった瞬間の効果は、ちょっとこれまで経験したことがないほど劇的でした。この場面での地謡の役割はBGMにとどまらず、大念仏に参加している人々としていわば芝居に加わっている状態ですから、そこに子方のよく通る声が加わりワキも正しくこの塚の辺りにて候と請け合うことで、舞台上にいるすべての人がその声を聞いているという情景が現出したからです。そして、この後に母子のすれ違いが繰り返されてついに子方の姿が消え、夜が明けるとそこには茫茫たる荒れ果てた草むらが広がるばかり……という寂しい終曲を迎えた後、本田光洋師は下がるときになぜか後見座に立ち寄る様子を見せたのですが、それでもシテの姿がゆっくりと揚幕の向こうに消え、ワキ・ワキツレが去り、作リ物が下げられ、最後に囃子方と地謡が退場していく間、見所はいつにも増してじっと余韻を大事にしていました。

なお、この日の演能の前に参加した「当日講座」での解説によれば、劇中の大念仏が行われているのは梅若丸の命日で、すなわち三月十五日とありますから奇しくも今日なのですが、これは旧暦の話なので新暦に直すと四月の中下旬で、桜の花は既に散り柳の新芽が芽吹いている頃合いだそうです。そして今の鐘ヶ淵あたりにある木母寺に伝わる「梅若伝説」が『伊勢物語』の「東下り」の話と共にこの曲の原典となっていますが、これによれば梅若丸の母は結局入水してしまったという後日談があるのだそう。中村昌弘師の言によれば、本田光洋師は以前「これでこの旅が終わったということなのだからカラっと謡ってほしい」と地謡陣に求めたということですが、これは本田光洋師による「角田川」の心優しい解釈で、「梅若伝説」の方では残念ながらそうはならなかったようです。

ちなみに前日談としては、梅若丸の父が吉田何某であることから推測されるように、伝承の中での梅若丸の母は「班女」の花子と同一視されていたそうです。

配役

狂言和泉流 長刀応答 シテ/太郎冠者 深田博治
アド/主 野村萬斎
小アド/客 高野和憲
小アド/客 月崎晴夫
立衆/客 野村太一郎
立衆/客 内藤連
立衆/客 中村修一
金春流 角田川 シテ/梅若丸の母 本田光洋
子方/梅若丸 中村優人
ワキ/渡し守 福王茂十郎
ワキツレ/旅人 喜多雅人
松田弘之
小鼓 曽和正博
大鼓 安福光雄
主後見 金春安明
地頭 高橋忍

あらすじ

長刀応答

伊勢神宮への参詣を思い立った主は、留守番の太郎冠者に「庭の桜を見物しにくる客には長刀応答しておけ」と命じて出掛ける。長刀応答の意味を知らない太郎冠者は、花見客がやってくるたびに言葉通りに長刀を振り回して追い払ってしまう。怒った花見客たちは大勢でやってきて太郎冠者をつかまえると、長刀を取り上げ太郎冠者を放り投げて引き上げていく。

角田川

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