泣尼 / 海人

2023/07/23

国立能楽堂で「金春流能楽師 中村昌弘の会」の第七回。これまでに私が参加したのは第二回の「船弁慶」、第四回の「二人静」、第五回の「角田川」、第六回の「鞍馬天狗」、そして今回が五度目です。

今回の公演は「高橋万沙先生追善」と銘打たれており、中村昌弘師が師事した金春流能楽師・高橋万沙師(昨年逝去)を偲ぶ品々がロビーにて披露されていました。

開演前に別途開催された事前講座にも参加したのですが、ここでの後藤和也氏 (能楽研究家・金春流地謡方)の解説は実に面白かったもののあまりにも多岐に渡る内容だったので、走り書きでとったメモを元に紹介されたエピソードのいくつかをかいつまんで記します。

  • 「海人」について(食堂「向日葵」で)
    • 「海人」は観阿弥・世阿弥より前にあった古作をもととし、元々前場だけで完結していたところに世阿弥が供養と舞からなる短い後場を付加したものらしい。『申楽談儀』の記述からするとその作曲には金春権守が関わっている模様。
    • 詞章の中に「南の海に急がんと」とあるのはポイント。阿弥陀信仰では西方浄土だが、志度寺が奉じる観音信仰の聖地は南方の補陀落であるから。
    • 後場で舞われる早舞は出だしはゆっくりだが女性にしては速く、これは神がかり、成仏しようという強い思いを示している。
    • 「海人」は特に金春流においては人気曲で、室町時代には春日大社の若宮祭りの際にも演じられていた。世阿弥が12歳のときに若宮祭りがあったことが知られているが、当時の若宮祭りは中止になることが多く永和元年のみ開催されていることが近年判明し、そこから逆算すると世阿弥の生年がそれまでの通説から1年ずれていたことがわかった。
  • 能舞台について(舞台の前で)
    • 能楽堂の舞台が建物の中の建物になっているのは、岩倉具視の欧米視察後に日本でも伝統芸能の舞台を国家として作ろうと芝に能楽堂(今は靖国神社の桜開花の標準木の近くにある)を作った際に、舞台を屋内に作らないと環境的に厳しいと判断したため。それまでは野外にあり、そのことを反映して能の曲の八割が春と秋の曲である。
    • 舞台の背後は昔は素通しになって彼方の景色を借景としていたが、今は鏡板が張られて松が描かれている。そこについている苔を専門家に見せると関東の能楽堂の苔は描き方が雑で関西の方が丁寧だということだが、横浜能楽堂は例外的に丁寧だそう。実は横浜能楽堂の能舞台は加賀前田家の邸宅に設けられたものが移築されたものだから、これは当然である。
    • 能舞台の周りは白洲になっているが、もとは能舞台とこれを観る将軍などの貴賓席との間に広く敷き詰められており、開演時には奉行が舞台正面の階を登って「始めませ」と呼び掛けていた。現代ではそうした場面はなく、階が使われることがあるとすればそれは舞台から役者が落ちたときくらいである。

他にも興味深い話が少なからずあった(すごい情報量だ!)のですが、メモを取りきれなかったのでここまで。

公演は仕舞から始まりました。「初雪」は中村昌弘師の長男である中学二年生の中村千紘くん。若竹のようにすらりと背が高い彼のこれからに期待しながら見守り、ついで「西王母」はやはり高橋万沙師に師事したという柏崎真由子師。謡も舞も自信に満ち、揺るぎのないものだと感じました。

次に金子直樹先生による「解説」のコーナーがあり、その冒頭で中村昌弘師が国の重要無形文化財総合認定保持者に選ばれたことが紹介されてから、「海人」についての説明が行われました。その内容は上記の事前講座と重なる点が少なくありませんでしたが、子方がこれほどドラマに絡む曲は少ないということ、法華経による変成男子の概念、身分の高い男が舞うことが多い早舞がここではシテが報われて成仏できる喜びを表して舞われる、といった説明に耳を傾けました。

泣尼

能「海人」とは「あま」つながりでもあり供養・孝養つながりでもある狂言を、大蔵流で。

最初に出てきた施主(大藏教義師)曰く、志す日(供養の日)に当たるので説法をしてもらいたいが在所には適当な出家がいない。先日、隣の在所で庵を結ぶ出家を見掛けたので、彼に説法をしてもらおう。かくして施主は隣村に足を運んで出家(善竹大二郎師)に来意を告げ、快諾を得たのですが、すぐにも行こうという施主に出家は「身ごしらえをしたいので上がってしばらくお待ち下さい」と施主を招じ入れます。ここでそれまで常座あたりにいた施主と脇座近くで応対していた出家が立ち位置を入れ替え、出家は脇正面の方を向いて独り言。「自分はこれまで説法をしたことがないが、そうだ、子供の頃に聞かされた親孝行の話をしてみよう。門前にどこの弔問に言ってもよく泣く『泣尼』がいるので、これを連れて行けば自分の説法も殊勝(ありがたそう)に見えるだろう」。

恰幅の良い善竹大二郎師が語る独り言は堂々とよく通る声で語られるので施主にも筒抜けになってしまうのではないかと勝手に心配してしまいますが、そうはならないのは狂言のお約束。そしてかねがね思っているのは、狂言の中でしばしば見られるこうした独り言が登場人物の、というより人間の本音を包み隠さず明かしていて、そこに狂言の大きな魅力があるということです。

さて、一ノ松から呼び掛ける施主の声に応じて登場した尼(善竹十郎師)は白い尼頭巾の中に狂言では珍しい面(専用面「泣尼」?)を見せ、腰をぐっと落としてひょこひょこきょろきょろ。あの姿勢と仕草は演じ手としてはきついだろうな……という心配をさせないほどに自然な様子で出てきた尼は、噂通り出家の顔を見ただけでありがた涙がこぼれると顔を覆う泣き上戸ですが、これを見て出家は「早や泣くか」。尼はいったんは出家の頼みを断わりましたが、お布施の半分を提供するという条件につられて前言を翻しながらまた泣くので出家は「泣きにくいところをよう泣いたものじゃ」と再び呆れました。

後見座で袈裟を掛けて施主のところに戻った出家は「志を同じくするもの」という名目で尼の同行を施主に認めてもらい、三人で施主の在所へ向かいます。この道行の間も尼はひょこひょこきょろきょろ、ここまで個性的な歩き方をする登場人物は見たことがありません。施主の家に着いたところで出家が持仏堂を始め掃除が行き届いていることをほめそやすと施主は謙遜しましたが、このやりとりは確か「布施無経」にもあったような。そして中央に演台が持ち込まれて出家はその向こう側、施主は脇座の近く、尼は角にそれぞれ位置を占めていよいよ説法が始まります。その内容は、最初に祇園精舎的な喩えを繰り出して人生の儚さとその中での親孝行の大切さを説き、ついで唐土のいくつかの人の名を出して悟りであるとか親孝行であるとかの例を挙げつつ、その中に花、月、雪などを織り込んでなかなかの名調子。ところが尼はありがたがって泣くどころかすぐに舟を漕ぎ始めてしまい、出家は話の切れ目ごとに「えへん!」と咳払いをしたり扇で調子をとるふりをしつつ演台をばしばし叩いて尼を起こそうとします。尼もさすがに最初はそのたびにびくりと目を覚ます様子をしていましたが、ついに途中でごろりと横倒しになって寝入ってしまいました。

諦めて説法を続けた出家が最後は印を結び朗々と謡い上げると、施主はこの説法に満足したらしく扇に布施を載せて出家に差し出し、出家もこれを扇で受けて無事にお勤め終了です。施主と別れた出家が喜んで帰ろうとするところへいつの間にか後見座に控えていた尼が声を掛けて、約束の「お〜ふ〜せ」の半分を要求してきました。何の役にも立たなかったではないかと断る出家に怒った尼はすがりつきましたが投げ飛ばされ、そのまま「許いてくれ」と下がっていく出家を「やるまいぞ」と追いました。

最後は尼の強欲が目立つ狂言でしたが、善竹大二郎師の押し出しの良い語り口に聞き惚れ、また善竹十郎師のデフォルメされた写実がユーモラスな尼ぶり(動きも語りも)に笑わされて、楽しい一番でした。

休憩の後、観世流・坂口貴信師と大鼓の亀井広忠師との組合せで独調「玉之段」。坂口師は白い紋付に浅葱色の袴、亀井師は黒紋付に紫の袴。「そのとき人々力を添え」から「海上に浮かみいでたり」まで、冒頭の短いシテの詞章に続き「かの海底にとび入れば」で始まる地謡のパートから大鼓が入ってきましたが、八人分の声量とダイナミックな抑揚・緩急をもって謡われる謡を大鼓の強靭な打音と掛け声がサポートし……というより対峙し、二人とも着座しているのにそこに海人が決死の覚悟で龍宮へ赴く情景が浮かび上がるような劇的な空間を作り上げていました。時間にしてわずかに5-6分間程度だったと思いますが、舞台上も見所の方も完全燃焼した感じです。

一転して仕舞「江口キリ」は金春安明師がじっくりと。「おもしろや実相無漏の大海に」以下、安明師自身による謡の独特の雰囲気が先ほどの「玉之段」とは対極的で、金春憲和師・辻井八郎師をツートップ(?)とする地謡もまたその世界観を受け継ぎ安明師の舞を支えました。

海人

人気曲とされる「海人」は私もこれまでに四回観ていますが、以下のように観世流(「海士」)が三回、金剛流が一回で、金春流で観るのは初めてです。

  • 2009年 角寛次朗師「海士
  • 2014年 浅見真州師「海士
  • 2021年 観世銕之丞師「海士」と廣田幸稔師「海人

特に2021年の観世流と金剛流は国立能楽堂の「演出の様々な形」という企画の一環で、異なる流儀・小書による同一曲の上演を通じてこの曲を掘り下げようというものでした。これらに加えて今月上旬に開催された中村昌弘師ほかによる「流儀横断講座」をオンデマンド配信で視聴したことで、予習は万全のはずです。

強いヒシギから始まる〔次第〕の囃子に導かれて登場した子方/藤原房前(中村昌弘師の次男で小学四年生の中村優人くん)の出立は金風折帽子をかぶり明るい青系の狩衣に白大口、ワキ/従者(御厨誠吾師)とワキツレ二人は素袍裃です。向かい合っての〈次第〉と地取、ワキの〈サシ〉に続いて子方が房前の大臣とはわが事なり以下、旅の趣を謡いますが、その謡には一所懸命に役柄を全うしようとする意気込みが感じられて好感を覚えました。以下、事前講座で言及された南の海に急がんとを含むワキとワキツレの長めの道行(憂き旅なれど以下を伴う)があり、着キゼリフを経て子方は脇座で床几に掛かりワキとワキツレも地謡座の前に居並びましたが、ここまで御厨誠吾師が引き締まった謡と語りでシテの登場をお膳立てした感じです。

続いて〔一声〕の囃子を聞いて登場した前シテ/海人(中村昌弘師)の出立は純白の着付と紺地の腰巻の上に浅葱色の水衣を肩上げにして、懐に扇、右手に鎌、左手には杉の葉で作られた海松布を下げたオーソドックスなもの。面はおそらく曲見です。〈一セイ〉海人の刈る、藻に住む虫にあらねども、われから濡らす袂かな以下の謡は(直前に金春安明師の謡を聞いたせいもあってか)冥界からの声のように響きました。やがてワキとの問答となり、ワキから水底の海松布を刈ってほしいと頼まれてワキたちが飢えているのかと誤解したシテは鎌を左手の海松布に当ててこれを召し上がりなさいと勧めますが、いや月を見るためだと説明を受けて、たとえ千尋の底であっても仰せとあらば……と言いつつ、そういえばかつて天智天皇の御代に龍神に取られた名珠を潜って取り上げたのもこの浦であったと過去を振り返ります。手にしていた海松布を後見に渡し、鎌を手に前へ出るところでワキの呼び掛けがあって、脇正面方向にはあまのの里、正面方向には新珠島と海人の旧蹟を説明したシテはさらに面向不背の玉が来朝した由来を解説し、その最後に房前の大臣の名を出したところへ子方が言葉をかぶせるようにやあいかにこれこそ房前の大臣よ。その朗々とした呼び掛けに思わず鎌を取り落としたシテは、声を震わせながら着座してあらかたじけなや候と両手を前に合わせました。

ここからの子方のみずから大臣の御子と生まれ以下の謡はそこそこ長い詞章である上に息を長く使ってゆったりと聴かせるものでしたが、千紘くんはこれを見事に謡いきってシテと地謡につなぎます。じっくりと謡われる地謡を聞きながら、子方がシオリ、シテもシオリ。やがて空気を変えるようにワキの求めがあって、シテはかつて海に入って玉をとってきた様子を再現することになります。

まず自分の中で覚悟を固めるように間を置いたシテ(回想の中の海人)は、懐から扇を取り出して右手に持ち今の御子を世つぎの位にたて給わば。かの玉をかずくべしと約束を求めつつ立ち上がり、それでもわが子の為に捨てん命。露ほども惜しからじと言うあたりまではまだ淡々としてくぐもった口調に終始していましたが、そのとき人々力を添えと玉ノ段に入ったところから謡の旋律が高音域での装飾的な動きに移行して、以後の詞章を地謡に引き継ぎます。以下シテは、海に飛び込んだ後に正先から見下ろして水底の深さにおののく様子を示し、龍宮の三十丈の玉塔に見立てた脇柱を扇で指してその高さを見所にも想像させ、八大龍王や悪魚・鰐口(鮫)が玉を守護しているために自分の命はもはやないものと絶望して波の彼方にいる子や夫を思い泣く(このあたりは地謡もいったん鎮静する)ものの、志度寺の観音薩埵に加護を求めて合掌すると足拍子を轟かせ(地謡も徐々に緊迫し)て大悲の利劍を額にあて龍宮に飛び入り扇を開いて宝珠を盗み取り、守護神に追いつかれたところで持ちたる劍をとりなおし。乳の下をかききり玉おしこめ。剣をすててぞふしたりけると崩れ落ちるところまでの一連の動作を文字通り流れるように演じましたが、その淀みなさもさることながら、力を失って安座するときにシテの面が目を閉じたように見えて息を飲みました。

最後は囃子方も地謡もリタルダンドで玉は知らずあまびとは海上に浮かみいでたりと玉ノ段を終え、ここでシテの姿は面向不背の玉を取りに海に潜ったかつての海人から語り手の立場で当時を回想する現在の海人に戻り、自らかくて浮かみはいでたれども以下、海人が自分の命と引き換えに玉を地上に持ち帰ったことによって我が子が大臣になった顛末を語ります。この場面について坂口貴信師は、当日配布されたパンフレットに掲載された対談の中で海底から浮かび上がって、その周りにいた人たちが、スパンと暗転になってみんな固まって、シテだけにスポットライトが当たるようなイメージだと書いていましたが、なるほど言われてみれば確かにそう見えますし、また私の方は、人形アニメーション作家の川本喜八郎氏が能「求塚」を原作として作った「火宅」において物語の中の莵名日処女が語り手である里の女の姿に戻ったときの暗く沈鬱な画面を思い出していました。

先ほどまで目の前の女はかつて玉を取り戻して生還した海人だと思っていたのに、実は玉の奪還と共に命を落としていたのだと知って房前も従者も愕然としたはずですが、ここでシテは自らの正体をこれこそ御身の母。あまびとの幽霊よと声に万感の思いを込めて明かすと扇を子方に渡して橋掛リに向かいましたが、常座で振り返ったときに左手が上がっていたのはシオリをしていたからでしょうか。ともあれ、数歩下がって面を伏せたシテは、そのまま寂しく橋掛リを下がっていきました。

アイ語リを通じて面向不背の玉の由来が改めて説明され、管弦講による弔いがなされる旨が触れられた後、ワキに促されてシテから受け取った扇(手跡)を開いた子方はそこに弔いを求める母の言葉を読み、ここから追善供養が始まって後場となります。

〔出端〕の囃子と共に地謡によって謡われる『法華経』の偈文に導かれて登場した後シテ/竜女の出立は、龍戴を戴き紅地の舞衣に黄色がかった色合いの大口、着付と腰帯は鱗文様。面は泥眼だろうと思いますが遠目には判然としません。前場に比べてはっきりと通りの良さを感じさせる声音で弔いに感謝する詞章を謡いつつシテは角で経巻を開きましたが、これを読み終えると経巻を巻いて子方に渡し〔早舞〕を舞い始めました(経巻は舞の途中で背後の山井綱雄師が回収します)。詞章だけ見れば志度寺を讃えるだけで終わってしまう後場にドラマとしての必然性を与えるためには、ここで後シテが成仏の歓喜の前に我が子との別れをどう受け止め、そのことをどう表すかにかかってくるだろうと思うのですが、中村昌弘師の後シテは、〔早舞〕のうち比較的ゆったり舞われる前半に二度のシオリを入れて我が子への別れの情を示した後、アップテンポになる後半では滑らかな運ビと力強い足拍子で成仏の喜びを全開にする直線的な表現だと思われました。

かくして〔早舞〕を舞い納めたシテは法華経を讃える謡と共に一度だけ子方と向かい合った後、地謡の志度寺讃嘆の詞章を聞きながら舞を続けて、常座で子方に背を向けて留拍子を踏みました。

中村昌弘師自身がどこを仕どころと考えて取り組まれたかは御本人にしかわからないことですが、見所目線からすればもちろん玉ノ段が着目ポイントで、目眩くような場面変化と感情の揺れとを写実的に、かつ流麗に演じきった中村昌弘氏の玉ノ段は本当に素晴らしく、この曲を初めて観たときに得た感動をこの日も再び体験することができました。ついで中入する場面と後場とでシテ(母)の子方(我が子)に対する思いをどのように表現するかという点にも注目していたのですが、この点については過去に観たいくつかの舞台との違いが見出せたものの、流儀の違い・小書の有無・演者の考え方のいずれがどのようにそこに反映されているかまではわかりません。

また、子方を勤めた中村優人くんはよく頑張ったと思います。難しい詞章をよく覚え、正しいタイミングで謡えるだけでも立派ですが、何よりすごいと思ったのは90分間の長丁場にもかかわらず集中力を切らさず、床几に掛かっていても終始姿勢を崩さなかったことです。冒頭に記したように今回は「高橋万沙先生追善」ということですが、もし高橋万沙師がご存命であったなら、きっと中村昌弘師と共に優人くんも褒めて下さったのではないでしょうか。

なお「海人」以外の演目もいずれも意義深く、番組全体としてとてもよくできた会であったと思いましたが、率直に言えば坂口貴信師と亀井広忠師による「玉之段」が突き抜けていた印象がありました。そこで確認してみたところ、これまで自分は坂口貴信師をツレでしか観たことがありません。かくして、師がシテを勤める機会を探して足を運んでみなければと思った次第です。

配役

仕舞 初雪 シテ 中村千紘
地謡 中村昌弘
西王母 シテ 柏崎真由子
地謡 村岡聖美
狂言大蔵流 泣尼 シテ/出家 善竹大二郎
アド/尼 善竹十郎
アド/施主 大藏教義
独調 玉之段 坂口貴信観世流
大鼓 亀井広忠
仕舞 江口キリ シテ 金春安明
地頭 金春憲和
海人 前シテ/海人 中村昌弘
後シテ/竜女
子方/藤原房前 中村優人
ワキ/従者 御厨誠吾
ワキツレ/従者 大日方寛
ワキツレ/従者 渡部葵
アイ/能力 善竹大二郎
栗林祐輔
小鼓 鳥山直也
大鼓 亀井広忠
太鼓 大川典良
主後見 本田光洋
地頭 高橋忍

あらすじ

泣尼

ある男から説法を頼まれた出家は、説法を引き立たせるため、布施の半分を渡す約束で、何を聞いても感激して泣く尼に同行を頼む。しかし万事準備が整い、いざ説法を始めると、尼は泣くどころか居眠りを始めてしまう。それでもどうにか説法を終え、無事に布施を受け取った出家に尼が約束通りその半分をよこせと迫るが、出家は怒って尼を突き倒し逃げてゆく。

海人

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