素袍落 / 逆矛
2022/12/07
国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「素袍落」と能「逆矛」。後者は初見です。
前日は冷たい雨が降り続いていましたが、この日はきれいに晴れて抜けるような青空が広がりました。この日の開演時刻は13時です。
素袍落
歌舞伎でも取り上げられて知名度の高い「素袍落」は昨年山本東次郎師の太郎冠者で観たばかりですが、今日は善竹彌五郎師が太郎冠者で、東京と大阪という違いはあっても同じ大蔵流。アドとして助演するのは伯父が大藏吉次郎師、主が大藏彌太郎師で、話の運びは前回とほぼ変わらないのでこまごま説明することはしません。
特筆すべきは、善竹彌五郎師が演じる太郎冠者が(やや声量不足気味ながら)師の持ち味そのままにすこぶる上品だったこと。酔い方としては眠り上戸な感じで極端な酔態を見せることはありませんし、世間の評判を引合いに伯父のことを褒めはしても自分の主の悪口を言うことはしません。伯父の家を出た後の主とのやりとりは途中から機嫌の良し悪しが逆転することになりますが、素袍を落としたことに気付いて焦ったり主のからかいをうるさがったりしても声を荒げる風ではありません。また、その空気感と馴染むように伯父の大藏吉次郎師もあの素っ頓狂系の声ながら大人の風格を醸し出していて、少々びっくりしました。
ともあれ、最後の追込みに至るまで全体を通して柔らかい運びの「素袍落」を堪能しました。
逆矛
この曲は観世流だけが上演している脇能で、先日の「龍田」と同じく紅葉の名所・龍田山を舞台としていますが、「龍田」が龍田明神の和魂にぎたまである龍田姫をシテとして龍田山の紅葉を数々の和歌の引用と共に優美に讃えるのに対し、「逆矛」は龍田明神と同体にして荒ぶる水の神である瀧祭明神をシテとして天の逆矛の縁起を勇壮に再現します。
見所の照明がぐっと落とされて夜の気配が広がってから囃子方と地謡が登場し、一畳台が大小前に置かれてその上に紅葉混じりの青葉の枝を戴いた山の作リ物が置かれ、澄んだ力強いヒシギ(杉信太朗師)からきびきびとした〔真ノ次第〕。大臣出立のワキ/朝臣(野口能弘師)の狩衣は紺色、ワキツレ二人は橙色で、大和にも織る唐錦、龍田の神に参らん
と謡うと地取があってワキとワキツレが再度謡う三遍返シとなります。ワキは自らを当今とうぎん(天皇)に仕える臣下だと名乗り、暇を得て大和の龍田明神に参詣するところだと述べて道行となりますが、その詞章が観世流の台本を元にしたと思われるパンフレット収載の詞章とはかなり異なっていました。たとえば手元の詞章には跡も昔に奈良坂や、龍田の山に着きにけり
とあるところを実際には嶺も小倉の名に残る、龍田山に着きにけり
と謡っていましたが、なぜこのように明瞭に書けるかと言うと能楽堂の字幕表示画面には謡われている通りの詞章が表示されていたからで、その詞章はワキ方(下掛宝生流)から提供されているものと思われます。
ともあれ〈着キゼリフ〉となってワキとワキツレが脇座に着座すると、一転して重々しく〔真ノ一声〕が奏され、まず松明を振りながら前ツレ/宮人(谷本健吾師)、ついで前シテ/老人(梅若紀彰師)が現れます。直面の前ツレの出立は厚板に緑の縷水衣、白大口。前シテは翁烏帽子狩衣白大口、面は子牛尉で、右手に幣を付けた榊を持っています。一ノ松と三ノ松とで向かい合ったツレとシテは龍田川、錦織りかく神無月、色づく秋の梢かな
と〈一セイ〉。脇能の老体の常として、シテの謡には力がこもり、所作もきびきびとした印象です。さらに紅葉の色が錦のようだと謡ったシテとツレは舞台に進み、ツレが正中、シテが常座。龍田の里に長く住む農職ながら神に仕え祈る者であると名乗ってシテ・ツレ同吟で今宵が瀧祭の神の夜祭であると謡ううちに、ツレは笛座前に移動し、常座に立つシテと共に山をはさんで立つ形になりました。
ここで立ち上がったワキから問い掛けられたシテは、その求めに応えて龍田山=宝山ほうざんへワキを案内することになりますが、シテとツレがわずかに前に出てすっと振り返りツレが松明で山を照らすとそこは既に宝山の前。これが宝山だと言われて感無量のワキが日本第一の宝の御矛を納めしは、この御山の事にて候か
と問い、これを受けてシテが山の前に下居して榊を置くと他の者も着座して、ここから国産み神話に遡るこの山の謂はれ
が語られることになります。地謡による高い調子の〈クリ〉は一体というよりそれぞれの音程で謡われる斉唱のように分厚く聞こえ、〈サシ〉を経て〈クセ〉は居グセ。シテが時折ワキを見やりながら曰く、伊弉諾伊奘冉の二神が天の浮橋から天の御矛を海中にさし下ろしたので天の逆矛とその名を改め、国土が治った後に瀧祭明神が矛を預かりこの山に納めて宝山と号した。瀧祭の神の社は矛の刃先と同じく八葉の紅葉で名高いここ龍田山であるからよくよく礼し給へや
。
さらに宝の御矛を見せてほしいとワキが願うとシテは紅葉衣の千早ぶる、神の祭早めん
と力強く謡い、瀧祭の情景を地謡が謡ううちに榊を上下に振って立ち上がりましたが、その姿は威厳に満ちています。ここに神は我なり
と正体を明かしたシテは、正先に出て榊を掲げて見せてから常座に廻って小回りの後に、山の後ろに消えて中入となりました。
無音のうちに前ツレが退場し、ついでワキがワキツレに命じて所の者(善竹隆司師)を連れて来させてのアイ語リは龍田明神の謂れについて。その中で語られた、御矛の刃先が八つに分かれていることにならい当社の楓も葉先を八つに分けていることから楓を御神木・御神体としているという話は「龍田」でも紹介されたところです。
所の者からの話で先ほどの老人が瀧祭明神であると確信したワキたちが柞ははそ(ナラ・クヌギの類)の紅葉を敷いて仮寝をしながら待っていると、音楽が聞こえ花が降り、異香が漂ってありがたやと思うところへ〔出端〕の囃子と共に後ツレ/天女(馬野正基師)が登場しました。この天女は「龍田」で言うところの龍田姫で、その出立は薄青地に金の細かい唐草文の舞衣と薄黄色大口。面は小面で、紅葉を立て瓔珞も華やかな天冠を戴いています。楽にひかれて古鳥蘇の、舞の袖こそ揺るぐなれ
とツレを迎える地謡の詞章は「氷室」と共通のもので「古鳥蘇」は舞楽の曲名ですが、扇を手に舞台いっぱいに舞い巡り、時折足拍子を交え、あるいは素早く袖を返して見せる〔天女ノ舞〕は、優美というより超常的な威光が感じられるものでした。
〔天女ノ舞〕が終わってツレが常座に着座すると共に、山の中からそもそもこれは、天の御矛を守護し奉る、瀧祭の神
と雄渾なシテの謡が聞こえてきて、シテと地謡の掛合いがこれから起きる奇跡を予感させた後柏手響く山の雲霧、晴れゆく日の光の如くに、天の御矛は現はれたり
と地謡が謡ううちにツレは笛座前へ移動。後見が下ろす引廻しは詞章に合わせてまずはシテの上半身だけが見える高さで横に広げられ、ついで霧が晴れていくように引き下げられて床几に掛かっているシテの全身があらわになりました。小書《替装束》《白頭》によりシテは白地に金の亀甲文(?)などを裾に控えめに置いた直衣とやはり白地にごく薄い青の団扇文を並べた指貫を着用し、天神面の上には白というより薄茶色の頭髪をつけており、そしてその右手には身長以上の長さを持ち異様な存在感を放つ矛が握られています。
そもそも大日本国といつぱ神国たり
以下のシテの朗々たる謡が天の浮橋を渡る伊弉諾伊奘冉のくだりにさしかかる頃から見所を照らす照明がやや明るくなって(手元の詞章が見やすくなり)、シテの姿は輝くばかり。さらに二神が御矛をさし下ろして青海原を掻き分ける様子が地謡の詞章とシテのダイナミックな型で示され、まず淡路島、さらに紀の国伊勢志摩、筑紫四国と国産みが進むさまを矛を右手にして見渡したシテは、立ち上がって山から出てくると短い〔舞働〕。舞台上を縦横に巡りながら力強く矛を薙ぎ上げる形を示した後さて国々は荒島なれば
以下キリに入り、御矛の威力で国土が整っていくさまを、たとえば左袖を振ってその手風が疾風となって芦原を薙ぎ払い、正先から矛を突き出して岩を砕いて土となすなど写実的と言える型の連続で見せてから、国が治った後に御矛をこの宝山に納め奉り
というところで矛を作リ物の中に差し入れ天井に下から突き立てたかと思うと、後見の介助を得てその矛が作リ物の中に直立したのには驚きました。
扇に持ち替え舞台上を舞い巡ったシテは宝の山に龍田の神は、御矛を守りの神体なり
と威風堂々、最後は常座で袖を返して留拍子を踏みました。
演能を終えたシテは、さっと袖を翻しツレを引き具して颯爽と橋掛リを下がっていきました。今年観た能の曲数は2月の「三山」からこの日の「逆鉾」までで計15番ですが、一年の締めくくりを脇能らしく前向きですかっとしたこの曲で終えることができたのは幸いでした。瀧祭明神の威光に触れたおかげで、よき年の瀬を過ごし、よき新年を迎えられそうな気がします。
この日、ロビーや見所にはいつになく外国人の姿が見られました。不思議に思いつつ観能を終えて外に出てみると、そこにいたのは外国人の団体と観光バス。どうやら能楽鑑賞がプログラムに組み込まれたツアーだったようです。この日の「逆矛」は綺麗な天女の舞や雄渾な神様の舞働があって見栄えのする曲だったので彼らも満足したでしょうが、これがもし「井筒」だったとしたら、舞台上で誰も動かないことにとても耐えられなかっただろうと思います(日本人ですら耐えられずに意識を失う客がいるので)。もっとも、ツアーを企画する会社の方でもちゃんと番組を見て、こういうツアーに向いた演目のときを狙って組んでいるはずです。他にどういう曲がツアー向きか自分でも考えてみましたが、すぐに思いつくのは「土蜘蛛」「紅葉狩」、それに「道成寺」といったところでしょうか。斬組みの派手な「夜討曽我」や「正尊」も行けるかな?
配役
狂言大蔵流 | 素袍落 | シテ/太郎冠者 | : | 善竹彌五郎 |
アド/主 | : | 大藏彌太郎 | ||
アド/伯父 | : | 大藏吉次郎 | ||
能観世流 | 逆矛 替装束 白頭 |
前シテ/老人 | : | 梅若紀彰 |
後シテ/瀧祭明神 | ||||
前ツレ/宮人 | : | 谷本健吾 | ||
後ツレ/天女 | : | 馬野正基 | ||
ワキ/朝臣 | : | 野口能弘 | ||
ワキツレ/従者 | : | 野口琢弘 | ||
ワキツレ/従者 | : | 吉田祐一 | ||
アイ/所の者 | : | 善竹隆司 | ||
笛 | : | 杉信太朗 | ||
小鼓 | : | 観世新九郎 | ||
大鼓 | : | 國川純 | ||
太鼓 | : | 小寺真佐人 | ||
主後見 | : | 山崎正道 | ||
地頭 | : | 小早川修(柴田稔代演) |
あらすじ
素袍落
→〔こちら〕
逆矛
龍田明神参詣の臣下一行は、神事に携わる者だという老人の案内を得て宝山に参る。老人は、伊弉諾・伊弉冉二神の国創りの際に用いた矛がこの宝山の瀧祭明神に預け納められたという縁起を語り、消え失せる。宵祭りとなり、天女と共に瀧祭明神が現れて故事を再現して見せる。